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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

愚行権は安全装置になってません

 「安全装置としての愚行権」 について。質問の(1)〜(6)については、番号ふってあります。
 タイトルはちょっと変かな。「tikani_nemuru_M氏の理解するところの愚行権は」と言うべきか。

相手を目的とする、ということ

 とりあえず、(6)からやりましょうか。>「「相手のためになる批判、相手を目的とした批判」って、具体的にどういう批判だ?」
 先に書いておくと、「相手のためになる批判」なんて、言ってないと思いますが。まぁ、それはそれとして。

 「相手を目的として語る」とは、直接語りかける場合には、相手は説得可能であることを前提として、相手を説得するという目的を保持して語るべきだ、ということを言っています。最近の記事に限らず、これは僕が数年来このブログで言い続けていることですけども。これを大事だと痛感している人だけが、その点を読み取ってくれます。考えたことがない人は、当然のようにスルーします。これは仕方のないことです。認知的不協和とでも言っておきましょうか。

 もちろん、説得可能であることは滅多にありません。時に、相手が説得可能であることをとても信じられなくなることがありますし、ならない方がむしろおかしいでしょう。しかし、相手が説得可能であるという前提を、形式的にでも保持しつづけることだけが、「啓蒙の暴力」を食い止める防波堤になりえます(必ずなるという保証はありませんし、そんな保証はありえないでしょう)。なぜそれが必要かと言えば、相手の反論を耳を傾けるに値するものだ、とみなすためにその前提が必要だからです。これは形式的にでも、常に保持されるべき態度です。真剣な吟味が必要であることを、真剣な吟味が必要なことだとあらかじめ知っていることはできません。これは、自分の方が説得される可能性に開くために絶対不可欠のことです。

 また、結果として、実際に説得できることが必ずしも必要なわけではありません。説得することも説得されることもない場合もあるでしょう。その場合でも、相手がなぜそのような認識を保持しているのかを理解できる可能性があります。相手に同意しないとしても、です。たとえば、「疑似科学を憎んでバカを憎まず」の後半に書いたようなことがありうるわけです。こういう態度こそが、啓蒙の暴力の暴走とやらを、止める可能性を持ちます(こういう態度「だけが」とは言いませんが)。

 僕が考えていることはこういうことです。で、「また、実際にビリーバーさんがその考えを変えることは、それが重大なものほど期待できなくなってきますにゃ。認知的不協和ってやつが働いちゃうんだよにゃ」とか言ってる人が、こういうことを考えていないというのも明白なことです。まぁ、理解できないことだとは思いませんが、時間のかかることだと思います。

愚行権がむしろ安全装置を外している件について

 次に(1)に行きましょう。>「誰かが、mojimojiは愚行権を侵害しているといったんか?」
 最初は少なくともそう読めましたが、ああ、なるほど。読み返してみて意味は分かりました。「NATROM氏が」「母親の考えを変える必要はない」と言いたかったわけね。そうだったのなら、こちらの誤読です。ただし。

 それはつまり、愚行権があるから、母親の認識そのものは批判しない、ただ、子どもに対する虐待だけは止める、こういうことですね。それって僕が前の記事の「「啓蒙の暴力」に無自覚なのはどっちか」の節で書いた批判がそのまま当てはまりますね。「成人の非エホバ信者には愚行権があるから、自由に輸血したらよい、しかし、子どもにまで同様の愚行を強要するのは、子の「永遠の命」を毀損する他者危害行為であるから、親権の認められる範囲を超えている」、というのとまったく同様の「啓蒙の暴力」を振るっているわけです。

 そして、「愚行権」を掲げて「母親の考えを変える必要はない」と述べるだけでなく、実際に説得を試みもせずに、しかし、子どもだけは取り上げて自分の認識に沿って処置を施すわけです。その処置は本当に正しいのか、を問う審級は、ここには存在しません。ここで愚行権は、母親に対して説得を試みないことの理由になっており、そうである以上、ここでの子どもに対する介入を反省する機会は、自身の内省以外にはどこにもありません。ですから、(6)に関連して述べたことからすれば、愚行権(というよりも、tikani_nemuru_M氏の愚行権の使い方)こそが「啓蒙の暴力」に対する安全装置をはずしてしまっていることになるわけです。

 範囲を子どもだけに限定しようと何であろうと、自他の認識をぶつけ合うことをせずに、自分の側の認識のみに基づいて介入することを正当だとみなすならば、それは最悪の「啓蒙の暴力」です。愚行権に基づいてtikani_nemuru_M氏が主張していることは、安全装置であるどころか、安全装置の解除になっています。開き直りはむしろそちらです。

 さて、「範囲を子どもだけに限定しようと何であろうと」と述べました。この点に関連して、tikani_nemuru_M氏は次のように述べています。

mojimojiが成人と子どもを分けることの意味がわかってにゃーということは確認できたにゃ。つまり愚行権がわかってにゃー。

 tikani_nemuru_M氏自身が書いているように、「年齢で線引き」は、恣意的にそうしているだけで、何の根拠もありません。まぁ、そのこと自体はとりあえずよしとしましょう。

 で、たとえば、酒やタバコなら「大人になってから」で済ませても、失うものはさほどでもないかもしれません。ただし、この場合でも、先に述べたように、相手が子どもだろうが何であろうが、「啓蒙の暴力」であることには変わりありません。この点が問題であることを考えるために、次のことを考えてみましょう。子どもの酒やタバコを禁止するときに、「子どもだから愚行権がない」「大人になってからしなさい」と言うだけで済ませるとするならば、おそらく最悪の教師と言うべきでしょう。むしろ、なぜ子どものうちに酒を飲んではならないのか、タバコを吸ってはならないのか、ともに問い、議論する姿勢がなければならないでしょう。もちろん、議論の末に子どもが納得しないとしても、依然として酒もタバコも認めないわけですが。しかし、説得する姿勢が必要であることは、自明と言ってもいいような気がしますね。tikani_nemuru_M氏の立場からすれば、「子どもだから」で済ませることになるのでしょうが。

 さらに、輸血拒否の問題について。「輸血されたら永遠の命を失う」というのであるならば、「大人になってから」では済まないわけです。この場合の問題はさらに大きいでしょう。まぁ、エホバの輸血の場合には実際には抜け道があるようですが、少なくとも、不可逆的な決定に関しては大人と子どもを分けただけでは意味をなさない、という批判は依然として有効です。

 以上のことからすれば、tikani_nemuru_M氏が「年齢で線引き」について何ら反省的に考えていない、ということが明らかなわけです。こうしてみても、愚行権って、全然歯止めになってませんね。

残務処理

 さて、以下、残された疑問と、こちらが突っ込んでおきたいポイントについて、tikani_nemuru_M氏の記事の順序に沿ってコメントします。

 質問(2)について。タバコ吸う権利がない、なんてどこにも書いてません。加えて、タバコを吸うことが、たとえばタバコを禁止したい人から「愚行」と称されたとしても、健康リスクを理解した上で嗜好品としてタバコを吸っている人においては愚行でもなんでもありません。他方で、件の母親がやっている「愚行」は、近代医学を信奉する人間からみて「愚行」なだけでなく、母親の本来の目的からしても(結果的に)「愚行」です。この区別には依然として関心がないようですが。

 質問(3)について。子どもについて介入するのであれば、「愚行批判をしなければならない」と述べています。

 質問(4)について。「他者危害」以外のケースについて「バカはほっとけ」なのでしょう?で、それを批判しているのですから、その指摘は的外れです。その人と話す暇がない、あるいは、私はその時間を使わない、と述べるなら、わかります。しかし、そのような時間を使うことが無益である、無駄である、と述べるならば、それを咎めます。……この違いが分からん奴には、ホントに分からん。でも、分かる可能性に僕は賭けるので、言う機会があれば、そのときに言う気力があれば、言うだけは言っておきます。

 「輸血されたら永遠の命がもらえなくなるってのは、神が禁じていることを知りつつ自らが輸血を選択したらの話だそうです」については、知りませんでしたので、どうもありがとうございました。だったらなおさら成人でも輸血して良さそうですね。

 質問(5)について。虐待やネグレクトに自己欺瞞的な側面があることなら知っています。で、それは自己欺瞞なのであって、自己欺瞞である以上、逆に言えば、それが危害であることは承知している、ということです。これと比較して、件の母親の場合、ホメオパシーの教えるところの治療を行えば子どもの状況が改善することは素朴に信じているわけですよね。これ、同じものですか?もちろん、なかなかよくならなくて「ホントによくなるのかな」と疑い始めたときに、「いや、きっとよくなるはずだ」と思い込もうとする欺瞞的な態度はありえるでしょうが、この場合の欺瞞は虐待やネグレクトの場合の欺瞞とは違いますよね?それとも同じに見えますか?

 「このロジックであれば、mojimojiはこの母親と向き合う必要があるはずなんだにゃ」。その時間を割く気がないのでやりません(ということは、最初から言っています)。やる場合には、そのようにやる、ということ(も最初から言っています)。

 「どちらがヒデエことを言っているか」は、まぁ、見る人によるとしか言いようがないですね。ちなみに、バカを108回使った文章を読んで「バカをバカにしている」と読む人は、よほどお粗末な読解力と言う他ないです。

 「NATROM(や僕)が行為を問題にしているのに対して、mojimojiは思想や能力を問題にしちゃっている」について。能力を問題にしていないことは「バカへの信を問う」で述べています。で、事実に対する認識は問題にしてるけど、思想を問題にはしてませんね。ちなみに、僕は思想を問題にするときにはしますけれど、その場合には、正しさにおいては問題にするわけではありませんので悪しからず。また、事実に対する認識を問題にせずに行為だけを問題にするなら、それはマズイでしょう、というのが、先の記事の趣旨ですよ。