モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

疑似科学を憎んでバカを憎まず

 「ずれた論点と悪意ある混同」@地下生活者の手遊び
 お答えしていきます。


 NATROM氏の記事の中の、たとえば象徴的な部分としては、末尾の次のところ。

母親を批判するだけでは問題が解決しないというのはわかる。なぜこの母親がホメオパシーにはまったのか、おそらく、ブログのタイトルの「自分探しの旅」というところにヒントがあるように思うが、そこから考えるべきなのだろう。それはそれとして、「自分探し」につきあわされて余計な苦痛、難聴になるリスクを一方的に背負わされる子を考えると、批判を行うべきだと私は考えた。どんな言葉もこの母親の考えを変えることはできないだろうが、周囲の人たちや、あるいは将来ホメオパシーにはまる予備軍の人に言葉が届けばそれでよい。
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20080516#p1

 まず、「どんな言葉もこの母親の考えを変えることはできないだろうが、周囲の人たちや、あるいは将来ホメオパシーにはまる予備軍の人に言葉が届けばそれでよい」というスタンス。「十字軍」の記事が「バカであるその人を目的とするようにバカにしろ」と結論しているのは、この部分への批判の意味を込めたものです。

 そもそも、僕はNATROM氏の記事を読んだとき、虐待を受ける子供の悲劇であると同時に、バカであるがゆえにわが子を傷つけてしまう母親の悲劇として読みました。この母親が、自分がしたことの意味を真に理解するとき(そういうときが来るなら、ですが)、そのときに生じるであろう嘆きや悲しみは想像に難くありません。真に理解するときが来ないなら来ないで、それはまた悲劇だろうと思います。が、NATROM氏の記事を読む限り、母親の悲劇に対する視線はまったくありませんね。そのような目線を持っているならば、あのような書き方にはならないと思います。

 どちらが重要か、という問題ではありません。この事例は、二つの悲劇を含んでいるのであり、両方を視野におくべき、ということです。単に趣味の問題と片付ける人もいるでしょうが、僕はそう思いません。疑似科学を憎むがゆえに、そういうことが見えなくなっているのだ、と考えています。NATROM氏にしてそうなのか、と。──まして、一部ブクマコメントにおいておや、です。

 だから、ニセ科学批判はバカ批判ではないという反論は、どこかズレてますね。バカと言おうと何と言おうと、もう処置なしの人々として切断処理されていることへの批判をしているのですから。

NATROMは「しんじゃうよー!いたいよー!もうだめだー!口があかないよー!しゃべれないよー!」と異議申し立てをしている子供の側にいるとしか思えにゃーのだが。

 この一文に即して言うなら、子どもの側にいることを批判しているわけです。そもそも、子どもと母親は対立しているのではありません。子どもは異議申し立てではなく、母親がなんとかしてくれると信頼して訴えているのでしょう。ただ、母親がバカであるがゆえに悲劇の状況に陥っている。にもかかわらず、殊更に「子どもの側に立っ」ているなら、それは錯誤です。──これもまた、疑似科学を憎むがゆえの錯誤だろうと、僕は思います。


 ここから、少し違う話を書きます。

 先の記事にも書きましたが、ニセ科学にはまっている人を見て、切実に「これはまずい」と思うことならいくらでもあります。で、ニセ科学にはまるまでの道のりを聞いていると、医者をはじめとして、本来的な科学者によって酷い目に合わされたがゆえにニセ科学に流れている、ということがしばしばあるのですね。これは一体何なのか、と。

 具体例を挙げますね。
 ある人が目の病気のためにある大病院に行ったんですね。何のためなのかロクな説明もなく次々検査をたらいまわしにされた挙句、四人の医師がかわるがわる診察して、「無理ですね、失明は免れません」という診断。「もうダメだ、失明したら暮らしていけない、死ぬしかない」と嘆いていたところ、相談された人がさらに僕のところに相談に来まして*1。その病院を僕は個人的な経験からあまり信用してなかったのと、たまたま評判の良い病院を知っていたので、そちらで検査してもらって、それでもダメかどうか確かめたら、と薦めて行かせました。結果、「絶対とは言わないけれど、手術でなんとか視力を残せます、確率だいたい94、5%ってとこかな」とのことで、実際手術してなんとかなりました*2。──このケースは、たまたま僕が近代医学の中で別の選択肢を示しましたから良かったですけど、インチキ医療が出てきてたらどうなってたんでしょうね。インチキ医療「だけの」責任として語れる話だとは思いませんが。

 こういうのもあります。ある慢性の病気の関係で、とある病院にずっとお世話になっている人の話。病気が少し進んできて、ある手術が必要だということになったようです。ところが、そのお世話になっている病院が手術で提携している病院というのが、その方が昔酷い目に合わされた病院でありまして、「その病院で手術を受けるのは嫌だ、なんとか別のところを紹介してもらえないか」とお願いしたところ、無理とのこと。だったら自分で探すから、紹介状を書いてもらえないか、カルテを貸してもらえないか、とお願いしたところ、断られた、と。結局、そのことが元でその先生と気まずくなってしまい、遂に、その人、通院自体をやめてしまいました。で、インチキ医療のお世話にこそならなかったものの、自分の毎日の食事やなんかと体調を記録しては、「あれがよかった、悪かった」と自分でいろいろやりはじめて。自家製疑似科学ですね。そうこうしてる間に、その慢性の病気の方は悪化してしまいましたとさ。今はまた別の病院に通院してますけどね。──これを、疑似科学の問題とは関係ない、と言い放つ人はいるでしょうが、僕はまったくそう思いません。この医師の言葉は、言われた側にとっては圧倒的な権威による言葉であり、逆らえないものなんですから。

 この話はさらにオマケがあります。

 今は別の病院に通院してますが、その、再度通院することを決心してある病院に行ったんですね。通院自体やめて病気が悪化してますから、もうフラフラです。で、やっとで行った病院でそれまでの経緯を正直に話したところ、そこの医師が、以前の医師とつながりのある人らしく。「そういう事情だったら、私のところで見るわけには行きません、前にかかってた先生のところに行ったらどうですか」と言われたそうです。で、結局、一切診察もせず。で、一切診察してないのにお金取るのか、という話になって、結局どうしたかというと、最初から受付自体していないことにしたそうです。世の中、すごい医者がいますね。さらに別の病院いく気力もなくなってたんですが、たまたまやってきた友達が事情を聞いてこれは酷いということで、自分のかかりつけのお医者さんに紹介してあげる、診療科目は違うけど、とにかくどこか紹介してもらえるはず、とのことで連れて行ってくれたそうです。翌日行った病院で血液検査したら、ものすごい貧血でとても歩ける状態ではないことが分かり、すぐ車椅子が出てきて自分で歩かせてもらえなかったそうです。言い換えれば、血液検査したら「とても歩ける状態ではない」はずの人を門前払いする医師が存在する、ということ。この人は、翌日、緊急入院しました。

 ニセ科学と科学の区別もつかないし、科学の中にもインチキがあり、まぁ、バカには手も足も出ませんね。くじ引きみたいなものです。たまたま「近代医学のお世話になる方がよい」という習性が身についた人の方が確率はいいでしょうけれど。でも、それを「事実にこだわって」考えたらどうにかなるように言う人もいますが、これもまたナイーブに過ぎるでしょうね。多くの人が、立派に事実にこだわっています。あんまりな医者が多々いる、という事実が問題なだけで。

 上に挙げたケースは、全部、最終的にはまともな医者に出会えてますが*3、これは単に運がいいだけです。強く薦める人、無理やりみたいに連れて行ってくれる人、そういう人が周囲にいたから、かろうじて、近代医学につなぎとめられただけです。インチキ医療に先に出会っていれば、どうなっていたか分かりません。実際、そうなった人も知っています。また、インチキ医療にひっかからないとしても、同時に医者も同じくらい信用できないから受診しない、という人もいます。まぁ、インチキ医療の餌食にこそなりませんけどね。でも、こうした機会逸失は、インチキ医療の餌食になってるのとあまり変わらないと思いますが。こういう人は、インチキ医療に引っかかる人より多いような気もしますね。気がするだけですが。

 件の母親がどういう経緯でホメオパシーにのめりこむことになったのか知りませんが、それは僕が例示したような話とは似ても似つかないものかもしれませんが、しかし、僕はまずはそれを理解したい、と思いますね。切り捨ててしまうより先に。まぁ、実際には何もしませんし、仮にするとすれば、の話ですが。少なくとも、NATROM氏がやっているような切断処理をしてしまえば、もうそういう経緯への視線なんてなくなるでしょう。──NATROM氏が「自分探し」と結びつけているところは、「自分探し」なるものに対する蔑視が透けて見えこそすれ、それなりの経緯や理由があってそうなっているのかもしれない、という可能性への配慮を感じません。それは、僕から見れば、「バカとはどのようなものかへの洞察を欠いた態度」なわけです。

 で、そうした洞察を欠いたままインチキ医療を批判しても、それはもぐら叩きにしかならないでしょう。他方で、科学の中にある疑似科学性を批判することが*4重要でしょう。思うに、これらは地続きのものです。もちろん、疑似科学批判をやめろ、と言っているのではありません。懐柔しろ、と言っているのでもありません。ただ、敵を憎むな、判断が狂う*5、と言っているのです。


 さらに、一つ付け加えておきます。僕自身が、インチキ医療にはまる人を理解しようとする姿勢を欠いていたときには、上記したような近代医療からの排除という現象は、ほとんど視野に入りませんでした。逆に、インチキ医療にはまる人にもそれなりの経緯がありうる(ある、との断言まではしませんが)、そのように考えて初めて見えてきたものです。「どうせオマエの考えは変わらないだろうけどな!」と思いながら相手を見ているうちは、こうしたことは見えない、ということです。まったく絶望的に見えたとしても、相手を説得する可能性に賭けるのだ、という前提にコミットしなければ、相手の中にある(ありうる)合理性も、変化の兆しも、読み取ることが困難になります。──それは、避けられるものなら避けるべきこと、避けようと身構えておくべきこと、でしょう。そうは思いませんか?


歴史修正主義のような疑似科学についてはどうですかね。また別に何か述べたいと思いますが、自然科学系の疑似科学とは、いくらか違う要素を含んでいると思います。

*1:分野的に、僕に相談するような話ではありえないんですけども、なぜかそういうことはたまにあります。

*2:こういうパーセンテージの数字ってどうやって出してんですかね。わからん。

*3:そうなるように、僕も努力しなければなりませんでしたが。

*4:この言い方は、少なくとも、議論の余地があるものです。ストレートに「科学批判」と書くべきかもしれません。しかし、上記した幾つかの医師の例は、科学の問題であるよりは、科学の担い手の問題、科学者が科学とは無縁の個人的利害や価値観を科学者の権威において押し通すことの問題です。科学者の権威性の問題です。科学そのものの問題ではありません。一般的には、こうしたものも「科学批判」とされるのでしょうが。しかし、ここで医師がやっていることは、科学でないものに科学の権威を持たせているというものであって、疑似科学者がやっていることと、何か本質的な違いがあるとは思えない。他方で、仮に科学が真っ当に科学であるときに批判すべき何かがあるとすれば、それとここで紹介したようなインチキ科学者への批判は区別すべきで、前者のみを「科学批判」と呼ぶべきではないかと思います。まぁ、FAではありませんが、議論の余地のあることだとは思います。

*5:by ゴッドファーザー。らしいですが、直接見たことはありません。