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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

「トラバにお返事」にお返事

 rnaさんの「トラバにお返事」にお返事。

まず、その人の主張する似非科学的な主張 A と別の主張 B が論理的に独立した主張であるなら、「A が偽だから B も偽だ」というのは論理的には正しくありません。

でもここで言う主張 B に対する「うさんくさい」という評価は真偽の問題ではありません。主張 B が「正しい」とか「間違ってる」などと言う人はいますが、それは必ずしも科学的に正しい/間違っている、とか、論理的に真だ/偽だ、とか言うことではありません。

主張 B の前提となる現実認識に事実誤認があったり、根拠から結論を導く論理に矛盾があったり、ということから科学的・論理的に間違いと言える場合もありますが、「主張 B = 護憲の主張」ということになれば、事は思想・信条の話です。

 まず、「うさんくさい」というのは、それが真偽の問題でも、真偽についての作業仮説の問題でもないなら、単に感情の問題に過ぎません。そして、そういうものに左右されずに物を考える、というのが、疑似科学的なものを回避するための基本中の基本のはずです。

 そういうものの考え方をすることが、「水伝」では問題だけど「「護憲」批判」では問題ではない、仕方のないことと言うなら、それはダブスタです。「思想・信条の話」などと言ってますが、思想・信条の話とは、前提を明確にしてその論理関係を明確にして議論しうる、つまり、「科学的に」議論しうる問題です。価値判断に関する命題が含まれるという点で注意すべきであるにせよ*1、それを明確にしさえすれば、「水伝」などの議論と本質的に異なるわけではありません。あるいは、人文科学や社会科学は科学ではない、とか主張なさるんでしょうか?

思想・信条から導かれる政策の是非については理屈の上では是々非々であるしかないわけですが、代議制による政治なり、思想団体による社会運動なりを通じて間接的に政治参加する限り、主張に対する評価はそれを主張する政党や団体の思想の背景にある世界観や価値観を受け入れられるか否かにかかってきます。

相手は支持者の言いなりになるわけじゃなくて自律的に動くわけですからどういう行動原理で動くかということを信頼できないと支持できません。それを脇に置いて純粋に主張だけを評価するというのは、学問的には意味があるかもしれませんが政治的には意味はありません。

 まるで、比例代表制で政党に投票するような話になってるわけですが、元の話は、「護憲」で集まってる市民運動団体の話ですよね?端的に言って、きくちゆみが参加する護憲団体に参加したとしても、きくちゆみの思想やその背景にある世界観や価値観を受け入れることとは何の関係もないのですが。どうしてそういう話になるのでしょうか?おかしいでしょう。(そこにはきくちゆみしかいない、ってんなら話は分かりますが。)

 そして、それを踏まえるならば、団体に参加するかは、他の参加者の思想・信条とは何の関係もなしに、まずはその団体の「目的」へのコミットを意味する、ということでしょう。そこで示されているのは、まずは理屈ぬきの「目的」のみであって、それはむしろ「学問的に」ではなく「政治的に」のみ意味があることです。

さて、もう一方の主張 A は「似非科学的な主張」ですが、これも主張の真偽が問題にされているのではなく、そういう主張を受け入れてしまう人の態度や、仲間のそういう態度をスルーしてしまう態度、というような行動原理の脆弱さが問題にされているわけです。mojimoji さんが参照した陰謀論ニセ科学市民運動について(Demilog) で demian さんが問題にしているのはそこですし、demian さんが参照した憲法9条911陰謀論、または安斎先生はどう考えておられるのだろう(追記あり5/2)(kikulog) で菊池さんが問題にしているのもそこでしょう。

 ここでは「運動について」で書いたことを繰り返すのみです。──団体への参加を、「そういう主張を受け入れてしまう人の態度」として解釈するのが、rnaさん(達)の思い込みに過ぎない、ということです。元々、運動とは、「護憲」を掲げているなら、まずは「護憲」にコミットするかどうか、という点だけが問題。中にいる人が、「護憲」のついでに何か別のものを掲げていたとしても、それは掲げている当人の問題。「仲間のそういう態度をスルーしてしまう態度」については、そもそも「スルーしていない」場合が多々あるので、これもrnaさん(達)の思い込みに過ぎません。また、この「スルーしていない」場合とて、端的に、そこでやり取りをする時間的・精神的余裕があったからやるだけのことで。別にやらなきゃいけないわけではない。

そんなわけで「似非科学的な人が護憲を主張してるから、護憲の主張自体もうさんくさい」というのは科学や論理とはまるで無関係な話なのであって、論理的矛盾を突いてどうこう批判できる話ではないのです。 

 これは本気でしょうかね。──本気だと言うなら、「「水伝」の主張が心地よいとか役に立つから信じる」というのは科学や論理とはまるで無関係な話なのであって、論理的矛盾を突いてどうこう批判できる話ではないから、疑似科学批判なんてもうやめたらいい、って主張したらいいんじゃないですかね。


 次は、いささか細かい点ですが。

そもそも似非科学疑似科学というのは科学を詐称して白黒つけないものに対して(嘘の)科学の権威でもって白黒付けるような主張を指すのだと理解しています。

 そんな風にキレイに切れないと思いますよ。やかんの小話じゃありませんが、「○○は科学的である」、「○○は科学的に否定できない」、「科学的に説明できないものがある(だから、○○に科学的な批判や正当化は関係ない)」、これらが状況に応じて融通無碍に出てきます。

 ちなみに、この引用部でもそうですが、「科学」とか(科学において)「白黒つける」といったことが、それほど明確に語られているわけではないですよね。これは僕の最近の一連の記事に対してトラックバックやブクマコメントで批判した人たちに全般的に言えることですが、「科学」って言葉つかって「疑似科学」って言葉を定義してるだけで、誰も「科学」を定義しません。そんなんでいいんですか、と思いますが。(僕はいいと思いますよ。むしろ、僕の批判者たちこそが、それではよくない、というスタンスのようにしか読めないわけですけども。)


【一点、追記】

「本記事の中で、菊池氏に対する批判をしていません」に関しては、kikulog の呼びかけからの流れから「似非科学的な人が護憲を主張してるから、護憲の主張自体もうさんくさい」というふうに思う人がいるのであれば、菊池氏が批判するような「似非科学を支持 or スルーしながら護憲を主張する人」の行動原理を「うさんくさい」と評しているのだと思ってあのように書きました。

 事実問題としては、僕は菊池氏への批判を「していません」し、それを示唆してもいません。具体的に検討すれば、なっているかもしれませんし、(rna氏が示唆したように)言い足りないことがありうるかもしれませんが、そんなこと知りませんので、そこはちゃんと分けてください、ということです。

*1:自然科学の問題とて、応用の領域に入るなら、価値判断に関する命題が含まれるようになります。