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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

運動について

 「余計なお世話は承知ですが」の次の部分については、あんまりだなぁ、と思ったので特に分けて書くことにする。

この世にはびこる非合理主義に反対する運動と、具体的な政策の実現・阻止のための運動とは別物。前者は一つ一つの発話の積み重ねの中で、長期的にやるしかないものだ。そして、一人一人の考え方は完全に同じということはないのだから、究極的には一人でやるしかないもの。何人かがグループを作ってやっているように見えても、一人でできる人がたまたま近くに集まっているだけのこと。そして後者においては、たとえば「教育基本法「改正」阻止」のような、具体的な目標が一点に定まっているなら、それ以外は一切不問というのが基本的なスタンス。「教育基本法万歳」な人も「欠点はあるが、改正案よりマシ」という人も、(そういう人がいたかどうか知らないが)「教育基本法を変えるなというお告げがあった」という人も、一切不問。

まぁここの部分に異論はなくて。特に前者については、まぁそうだろうな、でも議論を通じて得るものはあるよ、みたいな感じ。後者については、ほんとにそんなんでいいの? みたいな疑問もあるけど、どうやら市民運動ってのは「善意」とか「共感」とか「中心人物の『人間力』」みたいなのを重視して「共闘」されるものなのかな、運動の過程で「合理性」みたいなものは二の次三の次で邪魔になるときには積極的に排除されて運営されているものみたいだな、なんて思わされる事例をごく最近も目にしたところなので、まぁそう云うものなのかも、みたいな認識もある。

 えーとね。たとえば教育基本法の運動のときでも、「教育基本法万歳」な人と「欠点はあるが、改正案よりマシ」という人の間で、ちゃんと相互批判もあったのよ。だから、一緒にやるということと、中で相互批判がないということは全然別の話。「合理性」が排除されているわけではありません。「非合理性」も排除されていない、というだけで。それで離れていった人もあるだろうし、それでも一緒にやった人もあるでしょう。

 ただね、離れていっても、やっぱり「改正」に反対な人は、離れたところで別口で「反対」を口にし続けただろうし、知る限りではそうしてる人もいた。やらなかったという人がいるなら、そいつがバカだ、というだけのこと。最近だと、チベットについても、排外主義者の便乗「フリーチベット」と一緒にされたくないと言ってる人だって、別口で「フリーチベット」を言いたきゃ言うわけで。

 「善意」でも「共感」でも「人間力」でもない、その運動の具体的な「目的」だけでつながる、というのが、(僕の引用部における後者の意味での)運動だ、ということ。当然、「科学」でつながるわけでもなければ、「合理性」や「論理」でつながるわけでもなく、もちろん、「似非科学」でつながるわけでもありません。「感情」でつながるわけでもありません。一点、たとえば「教育基本法「改正」に反対かどうか」という「目的」でつながる、ということ。

 「目的」以外のところで我慢がならない人は、自分たちの方が運動の中で主流であるなら、その「非合理」な人たちを追い出せばいい、わけです。でも、まぁ、そういう「合理的な」人たちは少数派でしょうから、むしろ自分たちが追い出されるでしょう。──だったら、我慢してやるか、我慢できないなら別でやれ、というだけのこと。短期的な運動とはそういうもの。別でやることをとがめたりはしません。少なくとも僕は。

 互いに悪口言い合ってることはあるけれども、だからといって、悪口をいいあうどっちも、運動それ自体をやめたりはしないのです。本当にその「目的」が、その人自身に「目的」であったのならば。──はじき出されてやめちゃった、なんてのは、そいつ本人の問題。似非科学とか運動のあり方とか、何の関係もない。徹頭徹尾、主体性の問題。

 当然、運動において、「合理性」は二の次、三の次です。合理的であるに越したことはない、と僕は思うけれど、それは動員をかける前の長い準備期間において考えるべきことです。どうしても「合理性」と(たとえば)「教育基本法「改正」反対」の両方でつながれる人だけでつながりたいならば、両方でつながることのできる人だけを集めて別にやったらよろしい。で、「合理性」を欠いた人たちについて「一緒にされたくないよな」と悪口言ってればいいのです。ただ、教育基本法「改正」に反対ならば、それはそれで勝手に運動やったらよろしい。そういうこと。

 それが護憲でもフリーチベットでも、その他どんな運動でも同じことです。「排除」って、「非合理性」を排除しようとしている人たちがよく言うよ、という感じですね。「非合理性」を批判するな、ということではありません。「一緒にやるな」ということまで言うなら、それは別の話だ、ということです。


 読み返すと重複多いですが、面倒なのでそのままあげます。