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死刑は社会正義ではありえない

 死刑についていくつかの記事を書いてきたけれども、「社会正義の臨界――光市母子殺害事件高裁判決」など参照しつつ。

sk-44氏の死刑存置論(1) 快楽殺人者の反省不可能性

 まず、sk-44氏の記事の、前半について。

私が極刑としての死刑存置論者であるのは、ある個人的な問題意識とかかわる。他人と共有しうるものであるかわからない。以下に端的に記す。お断りすると気分のよい話ではない。

所謂快楽殺人者は、被害者の殺害を前提とする性犯罪者は、死刑台に送られて然るべき、あるいは、死刑台に送らないことには仕方がない。そうした認識と見解に私は同意せざるをえない。

 「気分のよい話ではない」とあらかじめお断りされているので、この先については引用しない。代わりに、以下の議論に必要な限りにおいて、簡単に要約する。<快楽殺人者において、その人を殺したその場面の記憶は快楽そのものであり、生きている限りその快楽を繰り返し味わうのだ、ということ。加害者を死刑にしないということは、被害者ならびにその遺族に、それを甘受せよと述べるに等しい>。その上で、次のように結論づける。

個人のきわめて私的な欲望が行為に介在するとき、かかる行為へと至らしめたきわめて私的な欲望それ自体を、加害当事者の滅形において裁くべく被害者遺族が望むことは致し方ないと。むろんこれは現行刑法に即した議論ではない。しかし、現行刑法に即して死刑を被害者遺族が望むことはありうる。そして、それは果たされるべき社会正義であるかと問うなら、YES、と私は答えざるをえない。地上と共存しえないきわめて私的な欲望は存する。地上を規定するのは、私たちの市民社会だ。利己に基づく他害を認めない原則のもとにある。

 当該事件の被告人が快楽殺人者であるかどうかも、争いうるだろう。ただし、ここではとりあえず、そうである、としておく。とするならば。意外に思うかもしれないが、僕はこのsk-44氏の論理に賛成する。賛成した上で、死刑廃止を主張する。

 つまり、こういうことだ。sk-44氏の論理が死刑存置を導くのは、「快楽殺人者は根本的に反省しない」という前提ゆえ、である。これは、加害者の可能性の断念である。そして、この断念は、決して再審されない。そういう類の断念である。sk-44氏の死刑存置論は、私たちがその加害者の可能性を断念することこそが、死刑存置論への同意を支持するという、その論理構造を正しく捉えているという意味で、まったく正しい。僕はそのように考える。そして、僕はこの断念に同意しないがからこそ、死刑存置に賛成することはないのである。

sk-44氏の死刑存置論(2) 慈悲殺としての死刑

 このように、sk-44氏は前半では快楽殺人者の反省不可能性を前提して議論を展開しているのだが、後半では、むしろその反対側からの死刑存置論を展開している。そこを検討してみよう。

 宅間守以降、控訴あるいは上告せず、もしくは自ら取り下げて、死刑確定する死刑囚が目立つ。山地悠紀夫しかり小林薫しかり、あるいは最近の松村恭造しかり。むろん人に拠るが、いずれ死刑は回避しえない(だろう)がゆえに「自棄になっている」ということもありうるだろうが、私は個人的に、彼らは自身の滅形という形式において、実存的な解決と、社会的な解答を、彼らなりに企図したのだろう、と考える。

 sk-44氏は続けてこうも述べる。「彼らは彼らなりに自身とその存在に苦しんだのだろう」、「意識と存在の相違と言うべきか。ままならないことというのはなるほどある」、「むろん、死刑は妥当である。本人にとっても妥当だろう」。──もちろん、sk-44氏も認めているように、これは推測に過ぎない。しかし、僕もこの推測が合理的であることを、ある程度認めるし、とりあえず、これを前提した議論は無駄ではないし、重要である。

 その上で、本村氏の次の発言を、賛意を示しつつ引用している。

 ゆえに。本村洋氏の以下の言葉は必ずしも不適当ではない。「不穏当」ではあるかも知れない。

本村  胸を張って彼には死刑を受け入れてもらいたい。胸を張れるまでには相当苦悩を重ね、自らの死を乗り越えて反省しなければいけないと思う。そうした境地に達して自らの命をもって堂々と罪を償ってほしいと思う。できればそういった姿を私たち社会が知れるような死刑制度であってもらいたいと思います。
<光母子殺害>【本村洋さん会見詳細】<3止>被告の反省文は「生涯開封しない」(毎日新聞) - Yahoo!ニュース*1


 以上の見解に、僕は同意しない。

 反省とは何か。「ごめんなさい」と言うことではない。何かをしでかして、「ごめんなさい」と述べて、また同じことをしでかして、再び「ごめんなさい」と述べて、そのような人を「反省している」とは普通は言わない。もちろん、「ごめんなさい」と言うこと、罪を認めることは、反省の不可欠な一部ではありうる。しかし、それだけでは反省たりえない。──何より反省とは、「ごめんなさい」と述べて罪と認めたその行為を、再び繰り返さないことである。ポイントを強調して言うならば、それを再び繰り返さないようにして「生きる」ことである。

 実際、大きなことであれ、小さなことであれ、何かをしでかしたならば、そのこと自体の取り返しはつかない。与えた損害に対して経済的補償をしたりといったように、取り返しがつかないことの代わりの何かをすることはある。しかし、そのように「代わり」が要請されること自体が、取り返しがつかないことを繰り返し証明している。重ねて言うが、そのこと自体の取り返しなど、絶対につかない。──私たちの多くは、少なくとも小さなことでは、何かをしでかしてきたことがあるだろう。そのときに、「ごめんなさい」と謝ったこともあるだろう。しかし、謝ったことでは、そのことは終わっていないのだ。反省とは、終わるものではないのだ。大仰な言い方をすれば、死ぬまで、そのしでかしたことの重みの中で生きること、これこそが反省である。

 だから、先の本村氏の認識に対して。まず、「死ぬ」ことは、いかなる意味においても「償う」ことを意味しない、と指摘するだろう。もともと、償うことなど不可能なのであるから、死のうが生きようが、それは「償う」ことにはならない。なるわけがない。次に、「自身とその存在に苦し」む、その生を生ききれと、僕ならば言うだろう。

 「自身とその存在に苦し」む、それはなぜか。

 自身の欲望について、少なくともそれを実行に移すことについて、それは罪でしかありえないということを認識しながら、そのような欲望を消すことができない、そのような欲望とともにあることしかできない、そのような自分の存在に苦しむ、そういうことである。──もっと具体的に言おう。彼が主観的には反省し、罪を認めて、もうこんな自分を変えようと考えたとしても、それでも自分の中から湧き起こってくる欲望を、どうすることもできないだろう。それでも、それを見つめながら、どうすることもできない欲望の中にありながら、自らの反省を維持すること、そのように生きること、反省するとは、そのようなことなのである。だから、苦しい。

 もうひとつある。反省するとは、しでかしたことの取り返しのつかなさを知ることである。償っても償っても終わりがない、償いきることができないことを知ることである。──彼が、心の中で、自分のしでかしたことの重大さを理解し、それをどれほど後悔したとしても、死んだ人は戻ってこない。取り返しはつかない。そのことに打ちのめされる。打ちのめされ続ける。反省するとは、反省することの無意味さを知ることでもある。

 ゆえに、死刑にしないことは、死刑よりも過酷な刑でありうる。「死刑より過酷な刑」について、「その納得できる具体例は聞いたことがない」という人もあったけれど、よくよく考えてもらいたい。先に述べたように、反省するとは、反省を生きることである。その一瞬一瞬は、反省を覆そうとする己の生のありように抗う生であり、そのように抗って維持される反省が無意味であることを思い知る生である。

 このような状況にあって、死ぬことが償うことであるとささやかれれば、それを信じたくもなるだろう。しかし、これは嘘である。既に述べたように、死をもって償うことなどできない。そもそも、償うこと自体が不可能なのである。ゆえに、死をもって償うなどと言うことは欺瞞であり、いうなれば反省からの逃避でさえある。


 まとめる。以上検討したように、死刑存置論を支えるものは、人間性への断念と償いの不可能性からの逃避である。僕は、この二つの前提を支持しないし、この二つの前提の上に「社会正義」を語るなどということも認めない。ゆえに、死刑存置論にも賛成しない。

*1:当該記事そのものは、現在リンク切れ。