モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

だから死刑には反対する

 光市事件について、遂にと言うべきか、死刑判決が出た。
 この事件について、これまで発言したことはないが、もちろん、折に触れて報道に触れる以上、何も考えないではなかった。いくつかのことを整理して述べてみる。


 率直に言って、本村氏の主張については、首肯することはほとんどなかった。ただ、少なくとも、次のようには思う。第一に、その一つ一つのことの中に仮に批判しうる点があるとすれば、具体的にそれを取り出して、検討した上での指摘しなければならない。第二に、仮にそのように批判ができたとして、どうして彼がこのような主張をしなければならなかったかを、踏まえなければならない。つまり、彼は突然にこのような事件の当事者となり、何の準備もないまま、事件に対する態度表明、その理論的正当化、実際の発言と行動、そうしたことをやらねばならない立場におかれた。ゆえに、仮に彼の主張に批判しうることがあるとしても、まずは、過酷な日々を潜り抜けた一個の人物に対する敬意があってしかるべきだと思う。前置きとして、とりあえず、このことだけを述べておく。


 今回の死刑判決において、被告人の荒唐無稽な主張に対して、「死刑を免れるために意図的についた嘘」という解釈がなされていた。常識的に、彼の主張に接しての第一印象がそういうものになるだろうことは理解できる。しかし、このような当たり前の直感みたいなもので人を裁くなどということがあってはならない。これは真剣に考えるべきポイントだと思う。

 ドラえもん云々などという一連の荒唐無稽な主張、逮捕後に知人に宛てて出したという手紙、などなど、それらは「反省が見られない」と解する他はない。僕もそのように思う。──しかし、そこから「反省していないから、死刑になって当然だ」とはならない。そもそも、反省とは何なのか。何かに反省するとは、反省することもしないこともできる人間が反省を選択する、というようなことではないはずだ。反省しない人間とは、何かが反省すべきことであることを了解できないということであり、それが了解できるということが、すなわち反省するということとほとんど同じことである、反省とはそのようなものであるはずだ。

 では、一連の荒唐無稽な新供述や手紙は、どのように解釈しうるだろうか。──判決で述べられていたように、「死刑を免れるために意図的についた嘘」という解釈も、もちろん可能ではある。しかし、第一に、このような解釈が可能であることは、このような解釈が正しいことを意味しない。そして第二に、「死刑を免れるために意図的に嘘をつく」という類の解釈が前提する合理性、そのような合理性を被告人に見ることは、僕はまったく的を外しているように思うし、さらに言えば非論理的だとも思う。つまり、いったい誰が、「合理的に考えて」、民家に押し入ってそこにいる女性をレイプしようと考えるだろうか、ということだ。首尾よく目的を達成して、逃げおおせる、そういう算段をあらかじめつけて、というような、犯罪目的のための周到さ、合理性、知性と言ってもいい、そういうものがあって、こういう犯罪を犯すというのだろうか。僕はそのようには思えない。そもそも、誰かを暴力的に屈服させたい、という欲望そのものが、僕にはまったく合理的なものに感じられないのだ。

 思うに、彼は、自分が罪を犯したということを、否認したいのである。彼は、実際に行ったことの事実関係について争っていない(どのような事実関係であったかを、ここに改めて記すことはしない)。しかし、それが罪であるということ、そのことを、彼は全力で否認しようとしている。僕はそのように思う。──たとえば、彼が出したという手紙。その中で、ドストエフスキーを引用して自らを正当化したり、男性が女性を襲うことを自然な欲望であることを示唆したり、といった一連の表現。彼は、自分がしたことは認めても、それが罪であるということを認めたくないのだ。もちろん、実際に言葉にしてみれば、バカげた言い訳でしかない。しかし、自己欺瞞とは、そういうものである。彼は、このくだらない言い訳を本気で信じて、信じ込むことによって、あのような「非合理な」犯行を行うことができたのである。このように、僕は思う。

 同じように、あの荒唐無稽な新供述についても、彼は本気であのように考えていた、という可能性は十分にあると思う。彼が、あの荒唐無稽な主張のとおりに、当時考えていたとして。もちろん彼は、その主張の荒唐無稽さを、どこかで自覚してもいただろうと思う。しかし、彼は、その主張が荒唐無稽であると感ずる己の感覚を、意志の力で忘却したのだ。重ねて言うが、自己欺瞞とはそういうものだ。──あの被告人だけでなく、私たちが罪を犯すとき、そして、その罪を認めないとき、そこで動員される言い訳は、もう、どうしようもないほど陳腐なものである。

 しかし。私たちは、その荒唐無稽な言い訳を、普段は胸の奥にしまって、具体的な検討をしないようにしている。自己欺瞞は、秘されることによって、自己欺瞞として完成する。だから、私たちは、こうした荒唐無稽な言い訳について常に寡黙である。この言い訳を口にしなければならないという状況そのものを避けようとする。──しかし、あの被告人のように、実際に申し開きをしなければならない場所に至ると、そういうわけにはいかない。そこで初めて口を開くとき出てくるのは、あのような実に陳腐な言い訳なのである。

 おそらく、最初のうちは、あのような言い訳に、どこかでその白々しさを感じつつも、やはり、その白々しい言い訳を信じ込もうとする。それができなくなると、それでも確かにあのときはそのように考えていたのだ、あのときはおかしかったのだ、今はそれがわかるか、でも、あの犯行を行ったときは、自分はおかしかったのだ、と信じ込もうとする。──自己欺瞞は、破られても破られても形を変えて、ある一点を必死で守ろうとする。「自分は悪くない」という、その一点を。

 反省とは、罪を認めるとは、こうした悪あがきを散々やって、その極北でようやく可能になることではないのか*1。──ある意味で、彼は自分が犯した罪の大きさに既に気づいている。彼はあのように全力で否認しているのは、むしろ、そのためではないかと僕は思う。

 かくして、あのようなバカげた言い訳をし、また(手紙において)バカげた虚勢を張っていた、というのが僕の解釈である。こう考えれば、むしろ、第一審、第二審のときの方が、「全面的に罪を認める方が、死刑を免れうる」という戦術を強く意識していたのじゃないか、という可能性さえある。つまり、彼は、戦術的に振舞うことをやめて、彼が本当に信じていることを口にしたのだ。もちろん、それは欺瞞的な信に過ぎないが。それでも、欺瞞的な信を、その欺瞞を口にしないために要請された欺瞞的な認罪を剥ぎ取った、その後に現れたものかもしれない。欺瞞的な信は、口にされることによって解体しはじめる。彼が自らの罪を正面から受け止めることがありうるとすれば、こうした作業の先にしかないだろう。──自己欺瞞との戦いとは、このような、らっきょの皮をむくような地道な作業である。

 以上は、僕の想像に過ぎないことは認める。しかし、裁判所が言うところの「死刑を免れるために意図的についた嘘」というストーリーも、僕の想像と同程度に想像に過ぎない、ということは指摘しておく。


 その上で。想像に過ぎないいくつかのストーリーの、いずれが真実であるのか、仮にわかる可能性があるとすれば、被告人が生きていなければならない。これが死刑に反対する一つの理由。二つめの理由は、こちらがより重要だと思うのだが、つまり、罪を犯した人が罪を犯したことを認める可能性に、最大限に賭けたいと思うからだ。それは時に、死刑よりも過酷な刑でありうるのではないか、と思いつつも。

 何か書き残したこともあるかもしれないけれど、ひとまずは以上で。

*1:もちろん、私たちは、比較的小さな罪については、結構素直に認めることもできる。犯した罪が大きければ大きいほど、それを認めることは困難になり、より強力な自己欺瞞が要請される。だから、そこで動員される物語の荒唐無稽さも増してくる。だから、私たちの多くは、あれほどまでの強力な自己欺瞞を動員する必要に迫られた経験をすぐに思い当たることはないだろう。