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inumash氏へ、「観客席なんかありません」

 inumash氏からのトラックバック。>http://d.hatena.ne.jp/inumash/20080401/p1
 論理の筋道の問題と運動論の問題を摩り替えている、というところは、あちこちで指摘されているとおりだけど、ではなぜこれを摩り替えてはいけないのかというところを付け加えておく。つまり、この種のすり替えは、「運動論として」ダメなのだ、ということ。

だから、例の批判に対して“リソースは有限なのだから”と回答するだけでは不十分なんじゃないかと思うんだよね。単に「左派を叩きたいだけの人」を煙に巻く分にはいいけど、普通に「左派に期待している/いた人」には不誠実に見えるんじゃないかな。

 その「左派に期待している/いた人」ってのは、一体誰のことで、今、何をしているんだ?「期待している」というからには、外部にいるんだから、左派じゃないんだよな。かつ、「左派を叩きたいだけの人」、つまり敵でもないんだよな。そりゃ一体なんだ?観客か?

 この手の没主体性を助長するロジックにはいい加減飽き飽きしてるんだが、それでも何度でも反論しておくしかないらしい。──誰かが「チベットの暴動に対する弾圧は問題だ」と言うなら、それは「私にとってもあなたにとっても他の誰にとっても問題だ」と述べているのだ。他のどのような問題であれ、なんらかの抑圧や侵害について「問題だ」と述べているのなら、それは「私にとってもあなたにとっても他の誰にとっても問題だ」と述べているのだ。それらは「左派の」問題なのではなくて、「左派に期待している/いた人」も含めた「みんなの」問題だ。少なくとも、「抑圧や侵害のない世界に住みたい」と願う「みんな」の、「抑圧や侵害のない世界で暮らせるべきだ」と考える「みんな」の。

 問題が「みんなの」問題であるなら、「みんなの」問題に対して誰かが何かをやることを期待したり、やらないことに失望したりするお前は一体何者だ、ということになる。この、問題に対して外部に立っているつもりの「期待/失望する人」とは、つまりは、政治的にノンアクティブな自称「普通の人」、自称「市井の人」だろう。そして、「政治的にノンアクティブである」=「ノンポリである」とは、「現実を変えるために、自分自身は行動しない」という一点において保守であり、かつ、保守であることを自覚しない/したくない欺瞞的保守である。

これだけ世間の注目が集まってる事案に対して“リソースが足らないから”という理由で期待された役割を果たせないのだとしたら、その結果は「落胆」しかもたらさないんじゃない?例えばここでチベット問題“ではなく”、より深刻かつ切迫している事案を提示して『いや、チベットも確かに重要だが、今はこちらにリソースを裂くべきだ。』と主張するならまだ分かるんだけど。

 ここでは「少ないリソースを有効に活用しよう」ということが強調されているわけだが、「そもそもどうして、そのリソースが少ないのか」は問われていない。言うまでもなく「何もしていない人間が多すぎるから」なのだが、それはinumash氏の頭の中では「左派の宣伝が悪いから」ということに尽きるのだろう。僕はこの「前提」に同意しない。当たり前だ。商品広告が、観客に対して「利益」を説くのに対して、社会運動は「重荷を共に背負うこと」を要求するのだから、「広告代理店」的な意味では「悪い広告」に決まっている。そして、「悪い広告」であらざるをえない。だから、そんなところに原因は求められない。──そこに原因を求められないなら、観客にこそ原因があると言うしかない。ゆえに、最大の原因は先に述べた「観客席」的欺瞞にある。そのように述べるしかない。

 で、inumash氏の論理の何が問題か。それは「広告代理店的」アプローチによって、ないはずの「観客席」を捏造するのだ。用意された「観客席」には、あらゆる問題を切断処理して心理的安寧を確保したい有象無象がなだれ込んで来る。この点において、inumash氏の論理は、「運動論として」ダメなのだ。バカなのかお人よしなのか、それともinumash氏自身が「観客席」にしがみつきたい人なのか、いずれかは知らないが。──同時に、inumash氏の記事に激しく同意している人たちにも言っておく。「観客席」に座っているつもりでいたい、という気持ちは分からないではないが、しかし、ないものはない。残念ながら、あなたも立派な当事者だ*1


 この社会のもっとも愚劣な側面の一つは、「広告代理店」的発想が、場所を選ばず、文脈無視で出てくることである。言い換えれば、「広告代理店」的発想において、「広告」される中身が問われないことである。仮に「広告」されるべきものがあるとすれば、まず第一に、少なくとも社会運動においては、「広告」を「見てるだけ」と言える「観客席」など存在しないということだろう。

*1:あるいは、自らの「権利」そのものも、「概念としては」否定してしまえば、楽になるかもしれませんね。誰かに踏みつけにされても、泣いたり怒ったりはしても、「不正だ」とだけは、言わずに生きていく覚悟があるなら、ですが。