モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

排外主義者、あるいは日曜サヨク、その3

 さて、先の記事に対して、id:ruletheworld氏から返事があったので、応答する。>http://anond.hatelabo.jp/20080331011310


 「お返事」部分に対して、逐一応答していく。

チベットへのコミットのみを支持し、それ以外のコミットを批判する(支持しないのではない、積極的に攻撃する)ような態度を正当化する一貫性」

なんというわら人形。一番本質的な所が全く述べられてないんだが。その記述に倣うならこう。

チベットへのコミットのみを支持し、それ以外のコミット『をチベットに関連付けする事で、本来チベットへ向かうべきであった問題の焦点をずらし、エネルギーを分散させてしまう事』を批判する(支持しないのではない、積極的に攻撃する)ような態度を正当化する一貫性」

ブコメだから適当読解で、言ってもいないことを勝手に読み取るマンはカンベンな。

要するに、自分の信奉する政治的ポジションの囚人になった馬鹿どものウチゲバで、チベットを仮想敵イデオロギー陣営の攻撃の道具として使うせいで、普通にチベットに懸念を持つだけの人の気持ちの発露を邪魔すんなよということ。

 「チベットへのコミットとチベット以外へのコミットを関連付ける」ことが「問題の焦点をずらし、エネルギーを分散させてしまう」。これが、ここでは「前提」されている。これは本来「論証」されるべきことのはずだろう。まず、ここにツッコミを入れておく。

 第一に、チベット問題と、たとえばパレスチナ問題が、同じような抑圧と侵害の問題系であることを指摘することが、なぜ「問題の焦点をずらす」ことになるのか。なるわけがない。チベット問題が、チベットにおいて抑圧と侵害を蒙っているある具体的な誰かの問題であるという側面に加えて、それが抑圧と侵害の問題系に共通する普遍的な問題でもあると指摘することで、なぜ焦点が「ずれる」ことになるのか。一つの問題を、二つのレベルで理解するということであり、二つのレベルの理解は、互いに支えあうような種類の理解ではあっても、一方で理解したら他方での理解を阻害するような関係にはない。こんなことは、説明するまでもないことのはずだが。

 第二に、これによって「エネルギーが分散する」などということがあるのか。あるわけがない。チベットにコミットしている人たちが、「これはパレスチナ問題とも共通した問題系なのだ」と理解することによって、チベットへのコミットをやめるのだろうか。やめるわけがない。むしろ逆に、さまざまな問題にコミットしている人たちは、個別のバラバラの問題にコミットしているだけでなく、一つの普遍的問題に取り組んでいるのだ、という理解につながるだろう。これがどうして「エネルギーを分散する」ということになるのか。なるわけがないのだ。

 以上二点の指摘から、逆に、ruletheworld氏のような発想が何をもたらしているかがハッキリするだろう。彼のようなスタンスが、さまざまな抑圧と侵害の問題に取り組むたくさんの人々を、つなげることはせず、分断したままにしておくのである。彼がやっていることは、一人一人の視点やコミットする力を、個別問題のレベルに縛りつけ、普遍的な視点につなげないことである。「問題の焦点をずらし、エネルギーを分散させて」いるのは、むしろ彼である。

世界各国の民主化されたメディアに接する事の出来る所に住む普通の民衆が、パレスチナや昨年のミャンマーや今回のチベットといった場所で人民が生命の危機に晒されている不正義に反応して緊急的な対応を求める意思をネットを通じて表明したりデモを行ったりする訳だ。

そのような注視の蓄積は、国際的な圧力として該当国・関係国に自制を、対応の緩慢な自国の政府に対応を促す事に繋がると信じる。市井の人の感覚とはそういうものだ。

ところが、そういった時にどうもいろんなイデオロギー的な主張の臭いを放たずにはいられない連中が、その表明行動に関与する事を目論む訳だ。

例えば、サヨ系平和団体が憎くて仕方ない連中がいるようで、こぴぺ発祥と思われるものからチベット事件のまとめガイドラインのようなヘイトサイトまで立ち上げて、ここぞとばかりにサヨ系平和団体と呼ばれる団体の欺瞞を喧伝する事に血道をあげている訳だ。または、チベット虐殺抗議デモin大阪(撮影日08/03/23)このようにデモにかこつけて竹島のためにチベットをダシに使う屑とか、他にも色々ウンザリさせられるものがあるだろう。

その逆に、「チベット問題との温度差をすげえ感じた」このエントリはどうだ。

チベットを枕にしたことで、生命に関わる緊急性も自由度も違う、直接関連する属性といえば少数民族に対する弾圧という話を「もしチベットについて語るのであればアイヌについても同じレベルで語れ!」とばかりに賭け金を引き上げ、市井の人のチベットへの素朴な感情の表明に対して冷水を浴びせているのに他ならない。

 この引用部のロジックって、最近流行りの、実に特徴的なロジックだよね。右と左を対立させて、どっちもどっちに棄却した上で、その間に割って入って「市井の人」を名乗る、と。ははは。「右でも左でもない」とか、「自称中立」とか、バリエーションはいろいろあるけれども。二点批判しよう。第一に、右と左をどっちもどっち的に棄却している点、第二に、「市井の人」というポジションについて。


 第一点。「サヨ系平和団体」を批判する連中は、「チベット以外の問題にコミットしながら、チベット問題にコミットしていないこと」を批判している。これに対して、「チベット問題との温度差をすげえ感じた」の方はそうではない。批判的に紹介されている「痛いニュース(ノ∀`)」は、アイヌ問題においては、被抑圧者を積極的に叩きさえしていることが問題なのだ。そして、当該エントリを読む限り、「両方について口をつぐめ」ということは、絶対に述べられていない。

 一点、強いて言うならば、「温度差」の記事では、「つーか、朝日も、アイヌの件取り上げるんだったら、中国がチベットに対してやらかしてることに対して非難せいよって感じなんですが」という言及がある点は「コミットのないことを批判している」と読めなくもない。しかし、相手は全国区の大新聞であるのだから意味が違うことは分かるだろうに。僕も個々人の活動については「コミットの不在」は批判しないけれど、朝日くらいの新聞がチベット問題をスルーしているのであれば、それは当然批判するべきだと思うけどね。

 ゆえに、この引用部にある「どっちもどっち」的非難自体が、まったく偏ったものでしかない、ということを指摘しておく。

 その上で、この引用部にあるもう一つの対立軸、第二点について。ここでの「市井の人」は、「イデオロギーに染まっていない人」ということなのだろうけれど、これこそがまさしく「特定のイデオロギーに染まってはならない」というイデオロギーなのだ。これは言葉遊びではない。このイデオロギーの何が問題なのかは、実は、既に示した。──先に示したように、ダブスタ問題における右と左の主張には、明らかな違いがある。しかし、「イデオロギーに染まってはならない」というイデオロギーの立場においては、この違いが見えなくなるのである。実際、ruletheworld氏に見えていない、という事実が示しているように。そして、「イデオロギーであることが自覚されていない」という意味でも、これぞまさしく純度100%のイデオロギーポストモダンイデオロギーである。

 では、このイデオロギーは何のために要請されるのか。「善良な市民と自分で名乗るほど恥知らずではない善良な市民」と名乗るほど恥知らずな市民が、善良であるという自意識をできるだけ安いコストで「買う」ために、このイデオロギーが必要であるのだ。──そんな事はないって?いや、そうなんだよ。だから、個々の問題を「抑圧と侵害」という、より一般的な枠組みの中に位置づけなおす、ということを嫌うのだよ。……まぁ、確かに「中国が嫌い」というところからくるのではないよね。こういうのは。それは認める。


 緊急性を言い訳にして、普遍性を犠牲にしていく、というのは、こういうことだ。しかし、その言い訳はまったく成り立たない。第一に、普遍性をきちんと述べたとしても、緊急性と矛盾しない。第二に、普遍性を犠牲にすることが、問題解決への土台を掘り崩していくことになる。


※ 「アイヌについて」以下の部分は、僕に向けて書かれるべき内容とも思わないので、特に応答しません。

※ 先の記事のブコメへの応答。

id:Yagokoro サヨクとウヨクが言葉遊びしていられる日本の自由と平和を心から言祝ぐよ俺は。

 人々の実践や行動をきちんと言葉にして普遍化していくという作業の上で、(曲がりなりにもローカルな)平和を暮らせているという自覚があるかどうか、ですよ。僕とあなたの違いは。