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意志への自由、その2

 font-daさんの書かれていることに異論はない。ただ、僕は、支援と運動は別物だと思っている。そのことが先の記事で十分明確だったか、と問われるならそうでもないので、これは反論ではなく、用語の整理です。


 支援は、あくまでも、支援されるその人のためのものである。被害者を支援するにあたって、被害者を守り支えることが支援者の役目のはずである。その場合、たとえば、運動のためにも加害者を告発する方が望ましいという場合であっても、被害者がそれを望まない場合、支援者は運動としての都合を曲げてでも、被支援者に添うべきである。細かい例外的事例がありうるのか、僕は知らないけれども、支援という場合には、そういうものになると思う。被支援者のためになるかどうか、という一点が最重視されるはずだ。

 しばしば問題になるのは、第一に、被支援者のためにならない自己満足な支援者による搾取であり、第二に、支援者が被支援者を運動に動員することによる搾取だと思う。他にもあるかな。ぱっと思いつかないけど、とりあえずこんな感じで思いつくことはある。いずれにせよ、これらは支援として失敗しており、その意味で、批判されるべきだと思う。そして、それは当然のことだとも思う。

 支援者が被支援者を支えるだけでは問題が解決しないことがしばしば明らかになる。支援者と被支援者以外の、社会のあり方*1に起因することが、しばしば明らかになる。そのために、問題に関心を寄せ、社会的な論点として提起していく仕事も別に存在する。僕はこちらを運動と呼ぶ。ただ、支援者として関わるがゆえに、その問題に対する理解を深めることも多いので、支援者が運動家を兼ねることは多いと思う。しかし、それとは別に、支援に関わることはできなけれども、運動には加わることができる、という人がいるし、また必要でもあろう。

 つまり、支援とは、被支援者に直接関わることであり、運動とは、支援・被支援の必要性を生み出しているところの状況を論点化する作業に関わる。医者の専門的な業務と、医療問題に関わる論点化の作業が別なことと同じ。僕が先の記事で問題にしたことは、基本的には運動に関わる。

 支援者が、運動への批判よりも、支援の現場での支援のあり方についての批判を優先するのは当たり前のことだ。ただし、それは僕の前回の記事とは、近いところにあるけれども、別の問題ではある。ただ、運動と支援は別という前提がそれほど共有されているものだとも思わないので、反論しているというわけでもない。font-daさんの指摘と、今回の僕の応答は、する必要のあるやり取りだった、と理解している。以上が、僕の前回記事とfont-daさんの記事のあいだの整合性に関する、僕の見解。


 以上を踏まえて、運動レベルの話に戻す。
 元の記事を書いているときに、font-daさんやtummygirlさんの記事は念頭にあった。ただ、批判の意味で、ではない。むしろ、font-daさんやtummygirlの記事を読んで、ある仕方で安心するような人たちへの批判を念頭に置いている。それはつまり、「何もしない人」がそれらの記事を読み、「何もしないこと」を「慎重さ」として語りだす(そんなことはありふれてる)、その仕草に向けて書いている。

 何をなすべきかにおいて失敗している人たちを批判することは時に必要だと思うけれど、批判するまでもなく、もっとうまくやって見せれば済むだけのことはしばしばあるので、そのようなことが可能ではないかと、先に検討する。仮に批判する場合でも、そもそも何もなそうとしない人たちを同時に批判する。僕ならばそうする。一番悪いのは、何もしない人たちだからだ。誤解のないように申し添えておくと、これは単なる戦略的配慮ではなく(結果的にそういう効果も持つけれど)、正確に書くならばそうなるはずだ、と思うからだ。

 批判する必要があることもある。たとえば、「沖縄との連帯」を口にしながら、沖縄‐本土の権力関係に無自覚な人たち、そういう人たちに対する批判を「「これ以上、沖縄に甘えるな」──差異の自覚と連帯」という記事に書いたこともある。僕は、これは具体的に弊害が生じうる話だと思ったので、それを具体的に論点化するように試みた。ただし、読んでもらえれば分かると思うが、この記事において最大級に批判されているのは、「無自覚なサヨク」よりも、それ以外の無関心層であり、自称「保守」*2である。


 同意されてもされなくても、当面どちらでも構わない(同意してもらえればうれしいのは当然ですが)。少なくとも、何もしない人たちが何もしないことの権威付けとして、font-daさんやtummygirlさんが書くようなことを参照することに対しては(これはfont-daさんやtummygirlさんの責任ではありません。当然のことながら)、釘を刺しておこうと思った。そのことを目に見えるようにしておこうと思った。ゆえに、先のような記事を書いた。そういうことです。

*1:=無関心な人たちも含めて、それを構成する一人一人のあり方。

*2:いったい、何を保守しているのか、この人たちは。