モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

意志への自由

 いろいろと思ったことを、整理せずに書いてみる。


 まず、ネットのあちこちで語られ(かつ批判された)被害者の自己責任を言う言説は、沖縄の中でもそこかしこで語られる。米軍基地との距離も、地域によって随分違う。那覇近辺であれば、米軍の存在感は随分と小さい。少なくとも最近は。堂々と言うかコソコソと言うかの違いだ。いずれにせよ、「沖縄」という一枚岩の政治的主体が存在するかのような語り方は、少し考えなおして欲しい気はする。*1


 今回の事件に関連して、あちこちの自治体から抗議決議が出されている。県民集会も開かれるらしい。こういう動きを被害者自身が喜んで受け止めたりするわけがない、とは思う。連日の報道の中で、ああ、自分のことが語られている、ということ、そのことは多分、痛いことのはずだ。ただ、地位協定がある限り、地域社会は沈黙を許されないだろう。地域社会の行動だけが、「運用改善」を担保している。これは先日も指摘したとおり。


 政治的意図をもった人たちが、被害者というシンボルを取り合っている、という話。その指摘は正しいだろう。しかし、そのような「距離を取る」言説自体に対しても、「取り合う」人たちの言説と同じくらいの違和感を感じる。「沖縄に基地を押し付けるのはいけない、本土も連帯しなければ、声を挙げろ!」みたいな、ステレオタイプなサヨクも、探せばいるだろう。声を荒げている人は、見る人が見ればわざとらしいふるまい、下品なふるまいにも見えるのだろう。それはそのとおりだとしても、やはり、それだけではない、とは思う。

 誰でも迷いながら、迷いをふりきりながら、ふりきったつもりでまた迷いながら、発言をし、人はその時点で持てる力を使うしかないから、底の浅いことやバカなことを言ってもやってもいるだろう。ただ、社会問題に関心を持ち発言するということは、最初はそういう底の浅い、レベルの低いところからはじめるしかないだろう。僕に関して言えば、自分がその程度の素朴なレベルにいた頃は、インターネットがなかっただけだ。人のことを言えた義理ではない。今は当時よりはマシだろうとは思う。それでも、十分なはずはなく、何が見落とされているのか、いつも戦々恐々としてもいる。

 ただそれでも、何かを言おうとする意志を、信頼したいとは思う。こんな空騒ぎを横目に、まったく関心などなく、「ああまたか」という風情でいる人たちの方が圧倒的多数なのだ。そして、それこそが問題なのだ。独善的でしかない正義をそれでも口にしようとする意志、その下品さの方を、僕は信頼したい。そんな理屈では論理が飛躍している、材料が少ない、全然未熟、そんなことは分かっていても、あるいは、分からないふりをしても、または、自分の議論は立派なものだと信じ込んだ上であったとしても、いずれにせよ、何かを口にしようとする意志にこそ、希望がある。その意志を信頼する。

 もちろん、意志さえあれば何を言ってもいい、というわけではない。善意があればいい、というのではない。そこで言われていることを批判する必要を感じることもある。しかし。僕は基本的には、自分だったらどうするか、自分だったらもう少しうまくやれるというなら、それは具体的にどうすることか、と考えて発言する。「お前のやり方ではダメだ」という指摘は、できるだけしない。ただ、自分のその都度のベストを実際にやってみせる。うまくやってみせることができればいいし、やってみて自分のもダメであるなら、それは仕方がない*2。その上で、うまくやってみせたとして、それを見て真似してくれればいいし、真似しようと思いつかないかもしれないが、それも仕方がない。具体的な弊害があるなら、その点においては対決するしかないこともある。ただ、そのときでも、心の中では、最初に振るわれた蛮勇を肯定したい気持ちでいっぱいだ。少なくとも、傷つけられた人に、弱い人に寄り添おうとする意志である限りは。あるいは、傷つけられた人や弱い人が発する意志である限りは。


 いつでも、最大限に批判するべきは、何もやっていない無関心な人たちの方だと思っている。関心を持って躊躇している人たちは、もちろん別だけど。それは、僕からは見た目には区別はつかないが、しかし、区別をつける必要もないと思っている。それぞれの人が、自分を振り返り、考えてくれればそれでいい。「自分はあてはまらない」と思ってくれればいい。考えなくても仕方がない。以上のことは、具体的な誰かに向けたものではない。ただ、先に述べたバカな人たち、下手な人たち、そういう人たちを「慎重さがない」といって批判するようなことは、僕は少なくともしたくない。たまに、本気で腹が立つこともあるけれど、具体的な誰か弱い人や傷ついた人を打つようなことでないならば、僕がいらだたしく思うかどうかなどどうでもよいことだ。


 社会運動は、政治参加は、賢い人たちだけのものではないと思うよ。
 また、自分も同じ穴のムジナ、と自嘲して見せることにも、あまり意味はないと思う。
 どうしてもウマが合わないのであれば、無視すればいい。
 具体的な弊害にだけ、対処すればいい。 


 なんてことを、今日の『斉藤さん』での真野のバカっぷりを見て思ったのでした。
 とりとめないけど、とりあえず。

*1:まぁ、自分も全然使ってないではないとは思うんだけど。自省もこめて。いつも気にしてはいるんですよ。一応。

*2:いつもいつもそのとおりにやっている、と言うつもりはない。同じ方向を向いている誰かを、やはり「批判」してしまっていることはあったように思う。ただ、心がけていることは、ここに書いたとおりのこと。