モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

「匿名の主に宛てて書く」の2

 http://anond.hatelabo.jp/20080216194346 に応答します。


 まず、「私は、あの女子中学生が『悪い』とは思っていません」というのが真実であるのなら、先の記事の中の「無知でいることは、そしてこんな事態を想像できないことは罪なのだと思った」という表現は適切ではない、ということには同意してほしいと思います。あるいは、表現の問題ではなく、そのときには確かにそのように思ったのだということならば、今の時点から振り返り、その感じ方は正しい理解ではない、ということを確認していただきたいと思います。

 性暴力の問題について参考になりそうな文献などでも少し調べてみるならば、その中で指摘される問題の一つに「被害者が自責の念を感じる」ということが指摘されていることにすぐ気がつくはずです。そういう人であれば、この文脈で「罪」という言葉を使用することは、ほぼ、ありえません。なので、こうした問題に真摯な関心を持っている女性がこうした言葉を用いるということは、僕にはかなり想像しにくいのです。ゆえに、「そのような設定のもと、想像で書いているのではないか」という疑いを持ちました。女性ですらないのかもしれない、という可能性も含めてです。

 しかし、女性にとって性暴力の危険は(残念ながら)日常的な問題ですから、どのような女性であれこのような問題に関心を持つだろうし、すべての女性がこの問題について調べられたりまとめられたりした資料にあたって考えているとも限りません。ですから、自身の経験を基にした率直な意見としてこのようなことが述べられる可能性はある、と、考えました。もちろん、僕の主観的意識としては、疑いの方が強かったですし、そのこと隠すつもりはありません。しかし、それは確定した事実ではない、ということは強く意識するように心がけてはいたつもりです。「なりすまし」ではない、というなら、それはそれでよいし、それでよかったとも思います。

 その上で、繰り返しになりますが、「悪い」と思っていないのであれば、「罪」という言葉の使用は適切ではない、ということについては、確認していただきたいと思います。いずれにせよ、そこに「悪い」の意味は込められてないことは分かりましたが。


 さて、もう一点。次の部分に関して。

mojimojiさんはそれに絡めて、「あんたは教わらなかったのか」と言っていますが、私は「知らない人に道を聞かれても無視しなさい」とは躾けられませんでした。「困っている人には出来る範囲で力を貸してあげなさい」と躾けられました。

私にとって、「○○までの道がわからないから知っていたら教えてくれ」と日中の路上で聞かれ、口頭で説明することは、「教科書を忘れちゃったから見せて」と言われて隣の席の子に見せてあげるのと同じ種類のことでした。

 おそらく、教える、躾ける、ということを具体的に考えるならば、このような問題に行き当たると思います。「何があってもどんなことでも知らない人に声をかけられたときには相手にするな」とだけ教えればいいのならば、それは簡単なことでさえあると思います。しかし、それは多くの可能性を失うことと引き換えに得られるものだということは、確認した方がよいでしょう。「困っている人には出来る範囲で力を貸してあげなさい」と教えることは危険を含んでいることは確かですが、まちがっているというわけではないのです。そして、そのように教えたいと考えるもっともな理由も確かにあるのです。

 この点を考えるために、次のように、二つのケースを分けて考えてみます。ある人が被害を避けたいと思い、注意水準を可能な限り最大限引き上げて生活することを選ぶとします。その人は、そのように警戒することに多くの注意力を使い、疲労し、しばしばさまざまな機会を失うことになるでしょう。しかし、そのことを批判も非難もするつもりはありません。その人は、その人の置かれた状況の中で、自身にとって最善のことを選んでいるのですから。ただ、そのように窮屈な選択をせねばならない状況そのものを批判するでしょう。

 反対に、誰彼かまわず疑いの目を向けるような緊張した生活を強いられることを嫌だと考え、あるいは、そんなことを考えもしなかった人がいるとします。その人は、多くの機会に飛び込んでさまざまな経験をする代わりに、多くのリスクを引き受けて運任せの生活していることにはなるでしょう。しかし、これについて批判や非難をすることが妥当でしょうか?僕はそのようには思いません。ただ、そのように当たり前に人と関わろうとする生活が、当たり前ではない危険と隣り合わせにしかありえないという状況そのものを批判するでしょう。

 わが子に危険な目にあって欲しくないと考えるのも親であるならば、その子が人を信頼してその関係の豊かさの中で育ってほしいと願うのも親です。互いに矛盾する異なる要求があるわけです。もちろん、これらの二つの欲求はあらかじめ矛盾しているのではなく、紛れ込んだ犯罪者のせいで矛盾させられているわけですが。だから、子に何をどのように教えればいいのかは難しいわけです。「○○までの道がわからないから知っていたら教えてくれ」と日中の路上で聞かれた場合に、相手が誰であれとにかく警戒して相手にしないような子に育てたいと思うでしょうか?状況に迫られてやむを得ずそのように教えるということはありえるでしょうし、そのように教えるとして批判したりする気もありません。しかし、積極的にそうしたいということではないはずです。

 今ある状況の中で、その人がどのような生活をするとしても、それはそれで僕には理解できることです。どのようなやり方が賢い暮らし方であると、少なくとも決めようがないように思います。ただ、いずれにせよ、状況が批判されるべきであり、犯罪を実行するその人が批判されるべきことはハッキリしています。そして、「それだけが」ハッキリしているわけです。

 ですから、匿名さんの記述の中には、もう一つ、僕が賛成できない点があります。それは「そう言う説明を受けても、無防備なままの不幸な女子もいるでしょう」という表現に見られるような、「無防備」であることを否定する言い方です。それは危険ではあるでしょうが、無防備なことが危険であるのは、状況ゆえに、です。犯罪者の存在ゆえに、です。それは危険ではあるでしょう。しかし、その危険が覚悟されたものであれ、無自覚なものであれ、以上、述べたような理由で、否定されるべきことだとは思いません。確実にいえることは、状況が批判されるべき、加害者が批判されるべきということであり、かつ、それだけです。少なくとも今のところは。


 最後に、もう一つ、付け加えておきます。「無知でいることは、そしてこんな事態を想像できないことは罪なのだと思った」、そのことが今なお、匿名さん自身にとって真理であるとするならば、少し考える必要があると思います。断言しますが、それは罪ではありませんし、ありえません。にもかかわらず、それが罪だと思えてしまうのであれば、いま一度考え直してみていただければ幸いです。