モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

「匿名の主に宛てて書く」を読む人に宛てて書く

 「強姦被害から自分を守るために、少しでも意識したいこと。」を書いた人は、その記事中に書かれたとおりの当事者であるのか。それは創作されたプロフィールに過ぎないのではないか。誰しも考えることだと思う。この文脈で、このタイミングで、このようなことを書けば、そのような推測のもとに解釈されることは、ある意味では自然なことでもある。

 ただし。このような自然な解釈から、自分の意識を自覚的に引き剥がすことが、やはり大事なのだと思う。僕自身の初読の印象としても、当該記事は「なりすまし」にしか思えなかった。しかし、その記事の書き手が本当の本当に切実な思いからこの記事を書いたのだと、考えるように努めてみた。それで書いたのが「匿名の主に宛てて書く」である。


 その上で、「なりすまし」であるという前提で考えておくべきことを書いておく。その「なりすまし」の主は、むしろ、このように叩かれることをこそ目的として、当該記事のような記事を書いているのであることを考えなければならない。つまり、その批判者をして、被害者の被害者性を剥奪する同じ穴のムジナに引き下ろそうという意図の下に、このような「なりすまし」が行われているのである。そのことに注意しなければならない。

 だとすれば、どうなるか。匿名で記事を書くことができること、そのこと自体を否定したくもなる。しかし、当該記事がなりすましではなく、本当にそのような体験をし、そのように考える誰かなのだとすれば、その人は匿名で書けるからこそ、このような記事を書いたのだろうと思われる。もちろん、仮にそこに嘘がなかったとしても、それは批判されるものを含んでいることは、先の記事で指摘したとおりである。そうではあっても、匿名でなければ書きにくかったかもしれないことを書くことができたのであれば、そのことを僕は肯定したいと思う。

 むしろ、僕らが一つのテクストを同時に二つの意味で読むように努める、そのようなやり方で、乗り越えられる道が模索されていいと思う。匿名を歓待するためのリテラシーと言ってもいい。「なりすまし」の亡霊に引きずられてはいけない。


 まだ書き足りない気はするけれども、この指摘は早めに書いておいた方がよいと思うので、とりあえずこの程度で。……やっぱり、もう一言言っておきたいな。仮に「なりすまし」であるとしたならば、その場合においてのみ、この書き手は最低の人間である。