モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

匿名の主に宛てて書く

 「強姦被害から自分を守るために、少しでも意識したいこと。」


 見過ごせない点だけを指摘しておく。

注意されていないわけでもないし、されていても、万能ではない

自衛することを教えるのも、とても大事なこと。親はきちんと教えなきゃいけない。
……
そういった事件が身近で起きているにも関わらず、自分のような子供にはそんなことが起きるはずはないと思ってしまったんだろうか。

 親が教えていないと決め付けることに根拠はない。教えていても、それを子どもがどのように受け止めるかは、親にとってさえ未知数。

 そもそも、この記事の筆者であるあなたにおいてさえ、「ショックな経験」を通じて初めて理解しえたのだろう。あなたは親から教えてもらわなかったのか。おそらくはそうではあるまい。子どもはどうしようもなく子どもであり、一般的には、大人の言うことを片っ端から真に受けるような子どもではない*1。この点に限っては大事なことだから、何度も何度も何度も何度もしつけろ、と言うのかもしれない。しかし、何度言ったとしても、それは体験される以前は、実感のわかないものでありうる。

 あるいは、この記事の筆者であるあなたにおいては、それを教えてもらわなかったために、被害を避けられなかったと言うのだろうか。そう思い込んでいるならば、二つのことを述べておく。第一に、あなたが誰からも教えてもらわなかったということ、それはきわめてレアなケースだ。第二に、仮にあなたが教えてもらったとして、教えられたことをどの程度真に受けるべきかを、正確に考量することができたとは限らない、ということ。

 言われたことがどの程度真に受けるべきこととして伝わるか、それはその子自身が、まったく未熟なその子自身が未熟なままに自分で考えて、決めることでしかない。親にせよ教師にせよ、こういうところで何度でも無力感を味わいもするわけだが*2。しかし、こんなことは、この記事の筆者であるあなたにも子ども時代があったのであるからには、分かっていることのはずだ。周囲の大人が言うことは、片っ端から真に受けるような人間であったのか、あなたは。まず、そうではないだろう。

 注意はなされていないのではないし、なされていても万能ではない。だから、あなたの記事は、その出発点からしてまちがっている。


 以上のことを踏まえて。あなたが真に自らの被害を振り返り、今を生きる人たちへの注意喚起としての切実な思いからこの記事を書いたのであれば。そうであればこそ、あなたとは別な、今回の沖縄の事件を「被害者へのしつけ」の問題に落とし込みたい人たちもまた、あなたと同じような文章を書くだろうということを指摘しておく。これは、あなたの体験とも、あなたの意図とも、まったく関係がない。あなたと同じような体験をした人を貶めようとする人たちも、あなたとまったく同じ文章を書きうるということ、そのように解釈できる文章をあなたが書いているということを、指摘しておく。あなたの思いが、真に切実なものであったならば、その切実な思いに添うことは、このような記事は書かないことのはずである。

その上で、決して認めるわけにはいかないこと

無知でいることは、そしてこんな事態を想像できないことは罪なのだと思った。

 私が私の身を守るすべについて無知であったことは、罪ではない。それは仮にいえるとしても、拙かった、愚かだった、という程度のことだ。それは罪ではない。たとえ比喩であるとしても、この文脈で「罪を無知」とするのは、被害者の自責の念を強めるものでしかない。一般にセカンドレイプ*3と言われている言説は、まさにこのようなものである。──繰り返すけれど、書いたあなたの意図は関係がない。被害者の至らなさを「罪」という言葉で語ることは、比喩としても許されることではない。

 さらに付け加えるならば、あなたは被害者本人だけでなく、その周囲で、わが子の無事、親しい人の無事を祈る人たちの至らなさについても、「罪」だと述べているに等しい。このこともまた、意図がどうあれ、許される物言いではない。


 ついでに書いておくならば、「無知は罪」と言うべき状況とは、他者の痛みについての無知である。誰かの痛みは、この世界のありようにおいて生まれているものであり、そこに私も関係づけられている。だから、すべての人が知ることは不可能であるとしても、すべての人に知る責任があるはずだ。そのような意味において、「無知は罪」である。

 その意味において言うならば、今まさに、あなたは、無知ゆえの罪を犯したのかもしれない、ということを指摘しておく。あなたが被害者を切実に思う者として真剣な言葉を書いたのだとしても、その言葉が引用される文脈、参照される文脈においては、あなたの切実な思いとはまったく正反対に作用しうる言葉を、あなたは書き付けたのである。そのことを見つめなおすべきである。

*1:そのような子どもなら、あまりにも杓子定規なために別の問題が生じるだろう。

*2:もちろん、まちがったことを教えかねないことも、他方では不安に思いながら。

*3:この言葉は嫌いだが。