モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

デスノートはどこにあるのか

 とりあえずLと月の対決のお話としてはよくできてて面白かったけれども、それとは別に、法と正義について。>あらすじは公式サイトをどうぞ。


 我々の社会が持つ「法」と夜神月の目指す「正義」の対決が一つのモチーフなんだけれども、法とは区別された正義の話をしだすと、すぐ、夜神月みたいなサイコな正義──「デスノートの力で抹殺する」という恐怖によって悪を抑止する──になってしまうのは、なんだかなぁ。これに対して夜神月の父・総一郎はこんなセリフを叫ぶ(うろ覚え)。「法律は不完全だ。それは人間自身が不完全だからだ。しかし、法律はその人間が何千年かけて積み上げてきた知恵だ。お前(月)がしたことは、断じて正義ではない」。ふむ、なるほど。

 しかし、この対立の構図は陳腐すぎる。たとえば、次のように考えてみよう。私たちが「デスノート管理委員会」なるものを作り、誰をどのような理由で殺すかについて民主的に討議し、その決定にしたがってデスノートに名前を書き込まれる誰かを決定する。そんな社会を考えるとしよう。言うまでもなく、これは私たちが持っている死刑制度とほとんど変わらない。まずはこのことを確認しよう。──といっても、映画の中でそうされたように、デスノートを処分=死刑制度を廃止しておしまいにしよう、という話にはならない。死刑廃止で済むような話ではない。(廃止すればいいとは思うけど、それはそれ、これはこれ。)


 私たちは(適切な手続きを通じて)代表者を選び、代表者たちは(適切な手続きを通じて)法を定め、法律家たちが(適切な手続きを通じて)法に基づいた決定をし、行政官が(適切な手続きを通じて)その決定を執行する。私たちは、手続きさえクリアすればなんでもできる。仮に死刑が廃止されていたとしても、(適切な手続きを通じて)再び死刑制度を定めることができる。憲法さえ書き換えることができる。つまり、そもそもデスノートは存在しているし、私たちはそれを所有している。しかも、それを捨てることも処分することもできない。

 私たちの持つ法とデスノートの違いは、前者がその使用において厳密な手続きを持ち、多くの人が関わり、その中でしか使用できないという制約を持つのに対して、後者はきわめて簡便にその力を行使することができる。そういう違いはある。そして、その違いは決定的に重要ではある。しかし、それでも、私たちはそもそもデスノートを所有し、それを使用している。少なくとも、その自覚が必要だ。──法、というものを、もっと広く考えてみよう。犯罪者の死刑であれ、「付随的犠牲者」を生み出す軍事攻撃命令であれ、貧困者に対する生活保護の打ち切りであれ、それらは全部同じことである。問題は、デスノートの存在それ自体ではない。そもそも、デスノートは存在するし、廃棄できない。本当の問題は、デスノートを使用しながら、そのことを都合よく忘れるという、私たちのあり方それ自体である。


 再び、夜神総一郎のセリフ。「法律」が「人間が何千年かけて積み上げてきた知恵」だと言うなら。ある段階まで積み上げた知恵を、批判し、乗り越えて、もう一段積み重ねて、ということの繰り返しだったということである。それはつまり、ある段階まで積み上げた知恵を批判する足場としての、その段階での法の「外」にあるものとしての、「正義」があるということだ。私たちはそこに向かって(月のような独善によってではなく)批判と応答によって接近しようとしているのだ。『DEATH NOTE』に欠けているのは、月の独善とは区別された、統制的理念としての「正義」である。