モジモジ君のブログ。みたいな。

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「消極的支持」の欺瞞こそ全体主義の始まり

【nichijo氏の指摘により、追記を一部修正、末尾】

 「消極的支持がない絶対的支持の投票は全体主義の始まり」(@手記)を受けて。


 選んだ人が主観的に何を考えているとしても、ある候補者を選ぶことは、その候補者の掲げる政策に対して、全体として、「イエス」と言うことにしかならない。私たちは、ある候補の掲げる政策に対して、全体として「イエス」と言うか、全体として「ノー」と言うか、そのどちらかしかできない。言うまでもなく、私たちは個々の論点について、異なる意見を持つことがある。しかし、私たちが持つ選挙制度においては、それを表現する手段はない。理不尽なまでに縮減された選択肢の中から、選ぶしかないのだ。そういうものである。

 私たちが持つ選挙制度が、候補者に対する投票としてなされている以上、これは形式的な意味で真である。これは事実であって、異論の余地はない。それが理不尽であるとしても、理不尽な事実があるのであって、その事実がないのではない。だから、nichijo-1氏が述べていることは、その理不尽な事実を前に駄々をこねているだけである。一つの可能な立場でさえない。単に、事実に反するまちがいに過ぎない。


 さて、nichijo-1氏は、「消極的支持がない絶対的支持の投票は全体主義の始まり」などとのたまう。事実はむしろ逆であろう。たとえば、かつてのドイツ国民は、少なくとも明示的には、ユダヤ人の虐殺に賛成したりしていない。ただ、「変化」をもたらしてくれそうな、威勢のいい連中を選んでみただけである。近所のユダヤ人家族が連行されて、それっきり戻ってこないということはあり、何か変だなとは思った。けれど、そんなことまでは支持してはいなかった。そういうことになっている。──投票というものが、選ぶということが、選ぶ側の感情とは無関係に、積極的支持でしかありえないという形式的事実から目をそらした結果がこれなのである。当選は当選であり、落選は落選である。形式的には、積極的だの消極的だのという区別は、まったく縮減されて、結果に反映されることはない。そんな区別を表明することは、制度上不可能なのである。その事実から目をそらして「私は消極的に支持しただけだ」と否認する態度がまかり通ることこそ、危険の兆候というべきであろう。それは権力に対峙する覚悟が欠如していることを、証しているのだから。


 それにしても、このような事実に反するまちがいが、疑われもせずに口にされるのは、なぜだろうか。少なくとも、その動機は分かりやすいものであろう。このまちがい=見え透いた嘘によって、利益を得る人々がいるからである。──かたや当選した候補者は、自分の掲げる政策が全体として支持されたのだ、と触れまわるであろう*1。かたや、投票した人々は、これは支持するけれどもあれは支持しない、などと言い募ることによって、選んだ誰かがしでかすことに対して、「誰からも尋ねられない限り」、責任を取る必要のない位置に身をおくことができる*2。こうして、誰も責任を取らない、取れない政策が現実に動き出す。責任ロンダリングと言うべきか。

 こんなことにいつまでも、気づかないというのいうのは、いくらなんでもバカではある。だから、気づかないのではないのだろう。気づきつつ、なお、それを容認することができるのは、掲げられた政策によって打たれるのが自分ではないと、ハッキリ確信しているからであろう。そして、その確信もまた、「意図的に」「忘却」されている。全体主義は、そのような自己欺瞞を餌にして成長するのである。


 大分、一般論に偏った議論をしたので、今回の府知事選に関連して、確認しておこう。

 言うまでもないことだが、核武装をするとは、それを使う可能性にコミットするということである。「絶対に使わない」と明言するならば、持つ意味などないから、これは明白なことである。であるならば、想像してみればいい。核兵器の被害に今もなお苦しみ、その国家責任を認めさせることにさえ多大な労力を(ほぼ人生そのものを)費やすことを強いられた人たちが、どのような気持ちで彼の核兵器発言を聞くことになるのか。

 たとえば、限られた選択肢の中で、仕方なしに性労働に従事せざるをえない人がいるとして、その人は「買春はODA」発言をどのような思いで聞くのだろうか。……馬鹿馬鹿しい揚げ足取り(のつもりのもの)をする人がいるかもしれないので先に書いておくが、僕は性労働を「禁止せよ」とは主張しない。ただ、禁止しないとしても、嫌々やっている人はいて、そこに考えるべきことはあるだろう、という立場である。*3

 たとえば、孤独死やホームレスになることに不安を持つ高齢者はどうだろうか。自分たちを守ろうとする公約は何一つ書かれておらず、「オモテにはでない」支持政党に叱咤されてようやく慰み程度の記述が加えられただけである。しかも、ご丁寧に、「「誰の耳にも聞こえのよいプラン」ではなく」などと注釈までついている。そういう人たちは、どのような気持ちで、橋下の演説を聴いていたのか。──きりがないので、ここでやめる。

 橋下を支持した人たちが聞かなかった、聞こえないフリをしたことは、こういうことの一つ一つである。ここまでのヒドイ発言は、熊谷にも梅田にも、他の泡沫候補にも、僕の知る限り、ない。


【2008/02/07 08:25追記、2008/02/08 08:17一部修正】*4
※最後に少し付け加えておこう。私たちは理不尽な選択肢の中に置かれており、そこから選ぶしかない。問題は、その理不尽な事実を前に、どのように責任を引き受けるかである。無責任を帰結させないためには、私たちはその状況を引き受けるしかないはずである。──以上のことは、誰を支持するかによらず、言える。ただ、見渡す限りの橋下支持者がこういう感覚を持ち合わせていないことは確かなようだ。少なくとも、nichijo-1氏にはない。ただ、見渡す限りの橋下支持者がこういう感覚を持ち合わせていないし、橋下を支持するわけではないnichijo-1氏にもない。その他の誰かを支持した人には、そういう感覚があっただろうか。

※私たちに与えられた選択肢は少なく、ゆえに、上記したような責任は理不尽にしか感じられない。しかし、上記したような責任に向き合う態度だけが、そもそもの私たちに与えられる選択肢を広げる可能性を持つはずだ。私たちが直面する問題に不満があるならば、不満を持ちながら渋々何かを選ぶだけでなく、問題そのものを書き換える可能性に向けてやるべきことがあるはずである。

*1:必ずしも全部支持されたわけではないかもしれない、などと口にすることがあったとしても、それが具体的にどれであり、具体的にどの点について自重することになるのかは、口にされることはないだろう。

*2:少なくとも、そのつもりでいるのだろう。

*3:性労働を「嬉々として」、あるいは「平気で」、できる人もいるだろう。そういう人は、それでいい。しかし、そういう人ばかりではない。「嫌々ながら」する人はいるし、少なくともその人は、その仕事を辛いと思う。一部ではあれ、そういう人がいる。その人に即して考えるべきことは、ちゃんとある。

*4:修正は、削除線部分。nichijo-1氏より「橋下支持ではない」というコメントがあったので、修正。ただし、追記部分にも書いたように、「以上のことは、誰を支持するかによらず、言える」ので、本論の内容はまったくそのまま妥当すると考える。