モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

選挙を勝ち負けで語る人たち

 去年の参院選の後の安倍・自民シンパの反応とまったく同じなんですよねこれ。自分たちの望まない結果を他人のせいにするという悪手は左右関係ないということでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/y-yoshihide/20080202/p2

 そういうロジックが成り立つことには基本的に同意するが、それが具体的な誰に当てはまるかは別問題だ。少なくとも僕に関して、参院選後に書いた記事から引用しておく。

 ともかく、暴走列車が一度は止まった。今は、嬉しい、というより、ほっとした気分だ。あれだけひどい政権が選挙で負けることさえなく暴走しつづけていたら、と思うと背筋がぞっとする。

 しかし、別に状況が好転したわけではない。選んだ人たちは、2005年総選挙のときと、ほとんど何も変わっていない。投票したときの頭にあったのは、年金記録管理の杜撰さであり、政治活動資金の領収書のことである。法で道徳を定義しようとする暴挙、教育基本法の書き換えに憤ったわけではない。審議を形骸化させた強行採決の数々に憤ったわけでもない。ちょっと前に郵便局員たちに向けられた憎悪が、今度は社保庁職員に向けられただけである。……
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070730/p1

 2005年の総選挙も、昨年夏の参議院選挙も、今回の大阪府知事選挙も、基本的には何も変わらない。そこに昨年春の都知事選を入れてもいい。──毎度のことだが、僕が批判しているのは個々の選挙結果ではない。僕は、そこでなされた選択が「みながともに生きる」という目標に照らして過ちであることを主張した上で、それに基づいて批判している。同時に、「みながともに生きる」という目標に照らして過ちではない、という反論を受けられないことについて批判している。そのような観点から熟慮されるということが一向にない、その都度の風向きを決めている根っこにあるもののいい加減さ=無責任さを批判している。そのような無責任さを是とする開き直りを批判している。


 このことが理解されないのは、リンク先の記事全体を貫く「勝ち負け」の発想と深い関わりがあるだろう*1

 少なくとも、私たちがともに生きることを目指している限り、政治においては、ともに勝ったりともに負けたりすることしかありえないはずである。意見が仮に異なるとしても、一人一人の選択には、全体がともに生きることを目指すときのベストの選択肢は何か、ということが賭けられているはずである。自らの推す候補が落選するならば、それは「みながともに生きる」という目標に照らしての損失のはずであり、自らの推す候補が当選するならば、それは「みながともに生きる」という目標に照らしての利得のはずである。「みながともに生きる」という観点から政治に参加する者にとって、こういうことは前提のはずである。──しかし、「橋下の当選は、あなたにとってもよいことのはずだ」という観点から反論する人は皆無なのである。「ともに生きる」という目標に照らしての合理性を主張しようとは、絶対にしないのだ。

 みずからの支持する候補が当選することが「勝ち」でありその逆を「負け」とする発想そのものが、こういう人たちの政治に対する態度を証明している。自分の選択の「自分にとっての」意味しか考えておらず、一人一人に対して突きつけるものを考えてなどいないことを、自ら白状しているのである。


※ちなみに、仮に増税によって負担が増える人であったとしても、現状が誰かを切り捨てる社会であり、増税とそれによる必要な支出がなされて切り捨てる必要のない社会になる(少なくとも近づく)としたならば、それはそのより大きな負担を負う人にとっても望ましいことのはずである。その人も「ともに生きる」という目的に同意している限りは。

※ルソーの一般意志と全体意思(=特殊意志の総和)の違いを想起してもよい。

社会契約論 (岩波文庫)

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*1:ただまぁ、こういう発想は、保守的な人たちの専売特許ではないけれど。身に覚えのある人はいるだろう。