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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

きはむさんへの返答

 前回の記事に対して、きはむさんからTBをいただいている。>http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20080119/p1
 簡単な応答。


 ひとまず、そのまたリンク先の「闘争・想像力・事実性」について。


 僕は、想像力を喚起すればもっとマシな選択をするはずだ、とは思っていない。きはむ氏も指摘しているように、その程度の想像力など、たいていは持っている(ホントにない人もいるだろうが)。「別に「彼」を乗せても船は沈まないけど、狭くなるから乗せたくない」という人は、正直にそのように言えばよい。もう一つ言うと、正直にそのように言わないとしても、事実性のレベルで「もう待てない」という人はいるだろうから、いずれ「別に「彼」を乗せても船は沈まないけど、狭くなるから乗せたくない」と言ったのと同じようにみなされるだろう、と言っている。

 立場の入れ替え可能性の指摘は、「実感として」入れ替えた状況を想像できることを目指しているのではない。私たちが傷つけられたときに発する非難の言葉は、立場を入れ替えても適用可能である、ということを述べている(少なくとも、僕としては)。テロリストに対する非難として発せられた言葉は、ほぼすべて、その発した当人に対しても適用可能である(そして、これは事実性のレベルの話である)。それでもダブスタを貫くなら、その人は、その人にふさわしい世界に住むことになるだろう、というだけのこと。


 続いて、次の引用部について。

私は、率直に言って、事実性が偶有性を乗り越えがちな時流を押し戻すことは難しいと考える。そして、時計の針を無理に戻そうとするやり方は、望ましくないと感じている。現下の状況において、安易な想像力回復論者たちが繰り返す「動物」たちへの強迫的言説に対して、私は批判的である。

 この引用部分は、きはむ氏の議論において、結論ではなく前提である。僕も楽観的な見通しを持っているわけではないが、僕はこの前提を共有しないし、できない。できない理由は次に述べる。


 先の前提から、きはむ氏は「事実性のみで行こう」と言うのだが、個人的には「今更」という話である。二つ指摘、というより、示唆しておく。アローの不可能性定理、およびその回避方法として提案されてきたものをサーヴェイした上で思うことは、選好の集計についての形式的なルールだけでは整合的な社会的決定をなしえない、ということ。選好そのものをぶつけあうステージが考えられなければならないということであり、それは規範的議論は避けられないということだと解釈している。具体的に言えば、それぞれの論者が自らの議論に対して直接に規範的前提を導入し、それを明示すること、それによって「実際に」価値の間の闘争を行うことが避けられない*1
 もう一つは、公共選択理論等、政治の合理的選択理論による分析において導かれる否定的な*2帰結の数々である。人々が自分の利害にのみ関心を持って政治参加するならば、それにふさわしい帰結が生じる。あるいは、そうならないようなうまい仕組みがあるとすると、「じゃ、誰がそれ作るのさ」という話になる。──ラディカルどころか「ホッブズ的秩序問題」として散々探求されてきたことだと思うけれど。その先にまだ道があるはずだ、と信じて研究するのは止めないけれど、それを支えるのは「事実性が偶有性を乗り越えがちな時流を押し戻すことは難しいと考える」という凡庸な直感だけであることは指摘しておく(個人的には、この凡庸な直感こそが「瓶のフタ」になっていると思うけど)。

 逆に、政治が、そうであってほしいと思える方向に動くときには、ほとんど常に、正義や倫理などに強くコミットメントするプレイヤーが存在する*3。──この指摘だけでは、そう強い主張はできないけれども。


 「議論の魅力」については、昔「社会運動のマーケティングについての覚書」で少し書いた。

*1:現状は、価値についての闘争のほとんどが、言論ではなく、実際の権力行使を通じて行われる。

*2:この、「否定的な」という評価は、僕の立場においては、という意味である。

*3:それを、合理的選択理論で「説明」することはできるが、「説明」できることは、「実際にそうである」ことを意味しない。