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「くたばれGDP」、再論

 このように、非公式経済、あるいは不正経済を広く包括するため、GDPは時を経るにつれて、富を全般的に過大評価してしまう傾向にあるということをさっき見てきた。ところがこんどは、GDPで計った経済成長は、インフレ調整によってすさまじく過小評価されてしまうこともわかった。だからGDP指標は、たぶんそこそこ適切な富の指標となっていて、長期的には富を過大評価するよりも過小評価しがちなのだ、と結論づけていいだろう。(p.123)

 「インフレ調整済みGDPは豊かさの指標として適当か?」という問題について、ビョルン・ロンボルグが出した結論である。>この部分のより詳細な抜書き


 この議論自体は正しい。しかし、この議論から何を言えるか、については注意が必要である。しばしば、経済成長の前後の状態が比べられ、「やはり経済成長は大事だ」という文脈で、この種の議論が用いられる。しかし、本当に比べられるべきは、現実に到達された経済成長後の状態と、別の制度の元で到達できたであろう別の経済成長後の状態である。──たとえば、実際にそうであったよりも大きな規模で再分配を行う別の制度があったとして、その時に到達できたであろう別の経済成長後の状態と比べなければならないのだ。
 再分配の前提となる課税は、賃労働を不利にし、賃労働以外の活動(たとえば余暇)を有利にする。よって、人々の行動選択において、賃労働から賃労働以外の活動へのシフトが起こるだろう。これも、コストの一つと数えてよい。
 その上で、後者の経済は、より多くの生活必需品がより広い範囲に手厚く分配され、その代わりに、GDPに占める多くの奢侈品は、現状よりも少なくなったであろう。技術進歩も、より生活に密着した財やその生産に関わる分野で多く開発され、奢侈品における技術進歩(たとえば、頻繁な高機能化、あるいはデザイン上のモデル・チェンジ)は抑制的になったであろう。
 仮に、より多くの医療・介護予算に支出する経済だったらどうであったか。そのときにも同様に、より多くの医療や介護が生産され、その代わりに、その他の財の生産が少なくなったであろう。仮に、より強い予防的な環境規制が行われる経済だったらどうであったか。そのときも同様に、予測の不確実性に起因する強すぎる規制のために失うものもあるが、予防的な規制のために未然に防げた被害もあるだろう。そして、そのような規制にうまく適合するように、生産技術を変化させたり、消費生活を変化させるような、そのような分野での技術進歩が進んだだろう。それ以外の分野での生産や技術進歩が抑制される代わりに。


 産業中心主義的な発想から見た経済成長・技術進歩が、公共支出による介入を前提にした場合の経済成長・技術進歩に比べて、過大に評価されているのである。産業原理主義者は、私的需要に呼応する生産においてのみ経済成長や技術進歩が生じるかのような語り口を用いる。その批判者においても、経済成長・技術進歩「よりも」大事なものとして、環境や生存を語ることが多い。その意味で、どちらも同じ錯覚に陥っていることがしばしば見られる。
 経済成長や技術進歩に関わる議論は、いかに分配すべきか、いかなる財に対して公的支出の責任を引き受けるか、そうした議論とは独立になされるべきである。「経済成長か、再分配か」ではない。この二つは対立していない。「何の経済成長か」と問わなければならない。