モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

政権担当能力

 民主党への批判の定番として「政権担当能力に疑問がある」というものがある。まぁ、民主党が頼りになりそうだとも思わないし、その他の政党についても同様。「能力がある」とは言わないよ。しかし、だ。いつも不思議に思うのは、こういうことを言う人たちは、今まさに政権を担当している政党を見て「政権担当能力がある」と考えているのだろうか。

 与党にも野党にもないのであれば、どっちにもないのだから、選ぶ基準は別のところにあるということになる。仮に、与党に政権担当能力があるという豪快な人がいるならば、その人の言う政権担当能力とは何なのか、ということが問題になろう。──まさか、政権を担当しているという事実のことを言っているのではないよね。

 そういや、その政党の、次の選挙で公認されるかどうか微妙な1年生議員が、「私は現職ですよ!」と力説してたな。現職であること以外に売りがないことを、本人が白状してた。しかも、その発言を「積極的な姿勢」と評価しておったよ、その所属政党の幹部は。まったく、すばらしい政権担当能力だ。


 しかし、だ。
 政治家は私たちの鏡である。それを忘れてはいけない。私たちが政治に関心を持つ度合いに応じて、関与する度合いに応じて、そのあり方にふさわしい候補者を、政治家を、私たちは持つことになっている。そして、その結果がアレなのだ。あの無能さ、茶番を目の当たりにして、ひとしきり嘆いて、そして、そこで終わるならば、同じ嘆きは明日も明後日も続くだろう。そこで終わるような人々こそが、嘆かれるべき事実の一部なのだから。その嘆きは、私たち一人一人の、一日一日の、あり方への嘆きとなって、初めて筋の通ったものとなる。

 「自民党がダメだったから、とりあえず、変えてみようよ」という程度の動機で政権が交代するならば、私たちは同じような、あるいはさらに悪い政治を持つことになるだろう。誰を選ぶか、ということではない。大事なことは「政権交代」ではない。まともな政権を持つことだ。そのためには、(まだ見ぬ)まともな政権にふさわしい私たちになることだ。それだけが、選ばれた誰かに緊張感を持たせることができる。それができないなら、誰を選ぼうと同じことだ。

 当たり前のことを確認しておく。すべての現実と政策を理解する責任を、すべての市民が負うている。──この程度のことさえ、すぐさま「無理だ」と言う声があるだろう。まぁ、時間的に無理なのは分かる。しかし、それならば聞くけれども、そのように言うあなたは、いったいどの程度なら無理ではない、のか。無理ではない程度のことを、あなたはしているだろうか。すべてを理解することができないなら、半分なら、四分の一なら、せめて一つの議題についてなら、それならどうなのか。さらに言う。そういうことをしているというなら、その認識を、誰か周囲の人々に話して聞かせてはいるのか。自分と異なる意見を持つ人たちに向けて、語りかけているのか。

 問われるのは、そうしたことだ。問われるのは、私たち一人一人の政権担当能力である。大多数の人々がそのことを忘れている限り、絶対にまともな政権などできっこない。