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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

可能性の問い方

 自分を全力で守ってくれる大人の庇護の下に、ではなく、ホッブズ的世界に生まれ落ちるような生まれ方がある。そのような中に生れ落ちた子どもが、暴力の吹き荒れる中で*1、ただ生き延びる、そのような育ち方がある。──そのような境遇からでも、自己を肯定することはできるだろうか。記憶を失うような暴力の中を生き延びてきた人が、それでも、生きていること、生まれてきたことを肯定できるのだろうか。


 知的に問われるべき問いとして問うならば、こんな問いに答えを与えることなどできない。できるわけがないし、してよいことでもない。ただ、そのようにして生きてきた人が、世界や他者を破壊しようという衝動に抗うようにして立ち上がろうとしているのを、見たことはある。だから可能なのだ。──このように述べることは、何を意味するだろうか。

 実証的に問題を解決したいならば、そのような人が実際にいるとして、「この人がその人だ。その人を見よ」と述べることになる。後は、皆で根掘り葉掘り、いろいろ聴くことになる。それは、その人を晒し者にすることでもある。私は、そのようなことをしたいとは思わない*2。──ただ、金学順さんたち、数多の証言者たちのように、自らを供するように現れる人たちもいる。私たちは、それを喜んでいいのだろうか。彼女たちが晒し者になることなく問題が解決されること、本当に望まれたことは、そういうことではなかったか。それが、可能であるかどうかは別にして。しかし、望んだことは、そういうことではなかったか。

 では、違う道を行こう。ある人がその人に会い、そして、「オレが代わりに確認したから、お前は安心してそれを信じろ」と述べるならば、どうだろうか。──思うに、それはその真実性に関わらず、詐欺である。詐欺に屈服する精神を要求することである。そのような精神を要求すること自体が、既に失敗である。仮に、その人が信じ、それによって立ち上がったとしても、同じ精神に訴えることによって、容易く打ち砕かれてしまうだろうから。


 実証的な問い方は、この種の袋小路にはまることがある。常に、ではない。しかし、人の生きる姿勢、実存に関わる問いは、往々にしてそうなってしまうのではないか。だから、「何が可能であるか」という問いではなく、「何が可能でなければならないか」という問いから始めるしかない。そういうことがあるのではないか。

 「それが可能である」とは、私たちが前提すること、信じること、である。不可能であるとしても、それは世界においてあらかじめ決まっているから、私たちが心配することではない。心配できることではない。(この話は、もうちょっと続ける、かも。)

*1:行使する暴力も行使される暴力も、同じようにではないにせよ、人の心を深く傷つける。

*2:ただし、そのようなことを「するな」という意味でも、「私はしない」という意味でもない。