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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

既に承認されて在ることを信じる、その2

 先の記事からの流れを受けて。font-daさんからコメントトラックバックをいただいている。x0000000000さんからもトラックバックをいただいている。font-daさんの記事に即して考えてみる。

人は無からは生まれない。なんらかの他者の営みから生まれてくる。そういう意味では、全ての人は誕生する時に、原理的には、他者に存在を肯定されている。たとえ生み出した人間から「望まない」「望んでいなかった」と言明されていても、殺されなかったという事実によって、その人の誕生の瞬間に起きた、原初的「存在承認」は担保されている。「存在承認」を経験したことない人はいない。この世に生まれ出ることとは、純粋な「存在承認」の発露だ。

 このような意味での「承認」であるならば、私たちは、日々、自らの排泄物に対してさえ、行なっている。承認を求める人たちが求めているのは、このような形式的なものではない。求められている承認とは、自分の声に耳を傾け、手ごたえのある応答を返し、時間を割いて関わりあうことであろう。──その意味で、font-daさんの述べている「承認」はトリヴィアルなものでしかない。

 とはいえ、これは、僕が先に述べた「既に承認されてある」という意味での承認がトリヴィアルなものではない、というわけではない。むしろ、僕はそれをまったくトリヴィアルなものと知りながら、しかし、確実にあるものとして、述べたのだ。そのように考えてみるならば、font-daさんと僕は、ほとんど同じことを述べているともいえる。──ただ、font-daさんと僕の違いは、それを自分と同等の被造物からの承認として位置づけるか(font-daさん)、必ずしもそういうものとは結びつけずに、超越的な承認として位置づけるか(mojimoji)、の違いである。言い換えると、あくまでも存在に対する許可を承認とするか、存在そのものを承認として理解しようとしているか、という違いとなろうか。

※僕は、一度くらいは、言語的なものをとっぱらって存在のレベルだけで考え抜いた方がよい、と思っているから、こういう方針になるんだと思いますが。

 私たちは、全ての人に「あなたは生まれた時に存在承認されている」と伝えることはできる。しかし、それを了解できない人に必要なのは、その原理の伝授ではなく、「私からあなたを承認する」という行為である。しかし、全ての人を直接的に承認することは難しいので、x0000000000さんの言うとおり、社会的に承認する基盤を整備することで勘弁してもらうことも多いだろう。少なくとも、自己内で存在承認を完結させることはできないのだ。

 「自己内で存在承認を完結させることはできない」。僕においても、別に、自己完結しているわけではない。自分と世界の関係において、そこで承認を完結させる、という意味である。そこに、自分と同等の被造物から向けられる何かを介在させない、という意味である。

 このように考えてみる必要があると思うのは、次の理由による。「自分を承認できない」「他人から承認されていない」と感じる人においては、ここでの「自分と同等の被造物から向けられる何か」が感じられないと述べているのだから、「いや、それはあるんだよ」と述べるのでは、答えになっていないのではないか。むしろ、それを使わずに答えてみよう、というところから考え始めているところがある。


 最後に、先の記事へのfont-daさんのコメントについて。

信仰の問題にしても、神に承認される前に、伝道者からの承認があります。親子問題では、親に承認されていない子どもがカウンセラーから承認されることで、親に承認されなくても、自分自身を承認して生きていけるというような言い方がされています。
……
信仰に入る入り口には、信仰に導く人がいます。というわけで、やっぱり、どこかで他人からの承認を受けることは必要だという結論に、たどりつきます。

 これには、僕は賛成しない。カウンセラーにしても伝道者にしても親にしても、問題になるのは、「いかにして支援者からはなれるか」が問題になる。親離れ・子離れ、カウンセラーへの依存が問題になる。また、悪徳宗教においては、この依存が悪用されている。そこでなされるべきことは、支えとなるような承認の供給ではなく*1、自己承認をうまく引き出すことにあるのではないのか。

 信仰に入る入り口にいるのは、「信仰に導く人」ではない、と僕は思う。教室にいるのが、「真理に導く人」ではないのと同じように。そこにいて欲しいのは、「共に信仰する人」であったり、「共に真理を探索する人」ではないか、と思う。ヒントになるのは、ピアカウンセリングのあり方ではなかろうか*2。それは、自ら立つ人を参考にしながら、自分も立ってみよう、という力を引き出そうとするものとして位置づけられているように思う。

 さらにもう一歩、考える。ピアカウンセリングが「促進」しているものを、孤独に達成することはできないのだろうか。──僕は「できる」と思うのだ。困難ではあっても。というわけで、ひとまずここまで。

*1:一時的にそれがなされる場合があるとしても、一時的でしかないし、また、その一時的承認さえも、それが良いことなのかどうかは分からないはずだ。

*2:危うさもはらんでいるようではあるけれど、それでも。