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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

承認は分配できるか(財のように)

 幸せそうな奴らが目障りだから気を遣うべき、いなくなるべき、云々、といった物言いに賛成しない。そうではない奴らが醸し出す暗さ、重さがうんざりだから、気を遣うべき、いなくなるべき、云々、といった物言いにも賛成しないのと同様に。すべての人が、幸福な、あるいは不幸なままで、行きたいことに行き、好きなことやすると決めたことをすればいい。

 社会が変わる必要がない、とも言わない。しかし、人は、生れ落ちた地点から、持って生まれたものだけを持って、とりあえずは始めるしかない。人間の自己責任論は醜く汚いが、それとは別に、神は自己責任を要求する。


 分配の問題は、幸・不幸とは関係ない水準にある。金持ちだからといって幸福なわけではない。貧乏人だからといって不幸だと決まったわけでもない。度を過ぎた貧乏は幸福になりようがない、ということはありうるのだろうか。いずれにせよ、度を過ぎた貧乏の中で幸福であるとしても、だからそれで構わないということではない。ただ、人の身体は何らかの財を必要とし、それが得られないなら、幸・不幸とは関係のない別の問題が生じる。だったら、それが得られるようなしくみがあるべきだ。そのような「経済」であるべきだ。


 承認の問題は、分配の問題のように扱えるだろうか?それは無理だ。すべての人が、少なくとも一人の人から承認されうるということ、そういうことは保障できない。誰からも承認されない孤独な人生はありうる。承認とは、承認しないこともできる人が承認するからこそ価値がある。分配は強制できるが、承認は強制できない。強制すると、意味がない。「財の」分配という問題は立てられるが、「承認の」分配という問題は立てられない。


 では逆に、誰からも承認されずに、それでも生きていくことを肯定できるだろうか?他者からの承認は、心地よい。時々、そのためにこそ生きているかのような錯覚さえ起こす。しかし、それは錯覚のように思える。誰からも承認されないとしても譲れない、というものは、自分の中にもあるような気がする。他者からの承認など不要だ、と言えるだろうか。言える。過去の幾つかのことを振り返って、自分の今の時点での見解として述べるならば、他者の承認は心地よいが、しかし、絶対不可欠のものではない、と、思う。より根本にあるのは、自分が自分を承認する、ということだと思う。


 よく言われるような「自分が自分のことを好きじゃないと、他人だって好きになってくれない」みたいな、そういう功利的な理由ではない。承認は、自己承認を必要不可欠のものとして要求し、そして、それで足りている。承認というものは、そういうあり方をしているように思う。自分が承認できていないものを他人から承認されて嬉しいだろうか。嬉しいと思ってしまうこともあるだろうが、それは自分で自分を騙しているようにしか思えないのだが。・・・この部分はもう少し展開したいけれども、これからご飯なので、ここで終わり。