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今、この社会でリビングウィルを要求すること──見えない「絶滅政策」

 edouard-edouardさんに質問をいただいたので、少し正気に返った。「これにふさわしい怒り方が分からない」などと呆けている場合ではない。ともかく、当面、僕にできることは、僕に出来る限りでの解説を試みることなので、そんなことしかできないので、改めて問題を整理してみました(十分なものかは別ですが。ご批判乞う)。

リビングウィルがこの社会で意味すること

(1)リビングウィルが直接に意味することについて。リビングウィルがないならば、その人を生かす、ということが医師に課せられた使命になります。医学の力が及ばず、ということは当然ありえますが、医師はその人を生かす、ということに全力で取り組むことが前提となります。──逆に言えば、リビングウィルとは、どの段階で「その人を生かす努力をやめていい」のかを、事前に決める指示書です。「生きる」という事前指示は要りません。だから、リビングウィルは、「死ぬ」ことに向けたリビングウィルであることを意味します。

(2)「終末期」とされる人たち(リビングウィルを書くよう求められる人たち)にとって医療・介護が持つ一般的意味について。こうした人たちが必要とする医療・介護は、その病気を根治することは一般にできませんが、その人たちが生きている間の生活の質(QOL)を改善することは可能です。呼吸器や胃ろうなどの医療的ケアを使用することで、身体的負担を減らすことができます。同様に、マッサージ等は身体が動かすことができないがゆえに生じる痛み等を軽減することができますし、身体の清潔を保つことでその分だけ快適さを維持することができます。このような意味で、「終末期」とされる人たちにおいても、医療や介護が持つ意味は大変に大きいものがあります。──つまり、「終末期」において、それは病気を根治することができなくても、その人の生活の質を高める効果は持っています。(だから、医療や介護保障をより厚くする努力には、ちゃんと効果を期待することができます。)

(3)現在、「終末期」とされる人たちに保障されている医療・介護の水準について。(2)に述べたように、「終末期」の人々にとっても(あるいは、「とってこそ」)医療や介護は重要な役割を持っていますが、こうした人たちが安心して暮らすことのできる医療・介護は保障されていません。どちらも、個人の、ひいては家族の大きな経済的負担を強いるものとなっているのが現状です。そのため、「終末期」とされる人たちが生き続けるときには、(3A)十分なケアが得られず、大きな苦痛を感じる状況で放置される(かもしれない)、(3B)ケアを供給するために、家族などの近しい人たちが大きな負担を強いられる(かもしれない)、という負担に直面することになります。──つまり、「終末期」において、生きることが可能な期間を生きることは、回避可能なはずの苦痛を味わうことや、近しい人たちの犠牲を強いることを意味します。(このような選択は、医療や介護の保障がより手厚ければ、その分だけ、軽減されます。)

(4)「終末期」とされる人たちが、「意思疎通ができなくなる状況」(リビングウィルが想定する状況)に対して持つ不安について。当然、意思疎通ができなくなることについて一般的に想像される不都合があるので、それに対する恐れがあります。しかし、(3A)や(3B)のような不安はきわめて大きいものであることが知られています。というのも、(3A)や(3B)に対する対策が立てられている、少なくとも周囲がその方向で努力している場合には、患者は生き続ける勇気を保持できることがしばしばあります。また、患者本人の生きる意思が、(3A)や(3B)に対処する意思を周囲に促し、現実に対処される、ということもしばしばあります。──以上のことから、「終末期」の「意思疎通ができなくなる状況」に対する不安は、身体に固有の不都合に対する不安(身体的不安)での他に、(3A)や(3B)の社会的不安の要素があり、しかも、後者の方が重大である可能性があります。言い換えると、本当には生きたいのに、社会的制約のために身を引くような形で死を選ぶ、という可能性があります。(医療や介護の保障をより厚くすれば、社会的制約ゆえに死を選ぶ可能性は、少なくとも減るはずです。)

(5)以上のような状況で(この社会において)、リビングウィルを要求することが意味することについて。それは、次の三つの選択肢の中から好きなものを選べ、という選択問題を意味します。(家族がいない人の場合には、2を除く二つの選択肢から選ぶことになります。)

  1. 生き続ける代わりに、貧しい医療・介護のもとで生じる苦痛を感受する。
  2. 生き続ける代わりに、医療・介護負担を家族に強いる。(これにより、家族の生を、生き続ける自分の生に従属させる。)
  3. (以上、2つの可能性を回避するために)死ぬ。

 これは、最初から死を選ぶように仕組まれた「選択」*1なわけです。だから、リビングウィルより先に、医療や介護保障をより厚くする努力がなされるべきです。──実際、「終末期の治療法、意思確認に診療報酬2」@What’s ALS for me ?でも報告されているように、今回の方針自体が慢性期医療を必要とする患者への圧力であることを、厚生官僚自身が認めているようです*2。「圧力」とは、しかし、生ぬるい言い方ですね。ハッキリと「慢性の病人は死ね」と言っているようなものです。

「優生思想」から「絶滅政策」へ

 ここで狙われているのは、産業主義的な意味において役に立つことが期待できない(しかし生きている)人々です。このような人たちが生き続けることの負担を節約するために、そのような人たちに死を与える、ということです。しかし、(言うまでもないことですが)産業主義的な意味において「役に立たない」人は、しかし、それでも生きていることで様々な関係性を生きており、その生が無意味なわけではありません。その人が生きていること自体にその人が生きている価値を見出すなら(つまり、その人が社会的制約がなければ生きていたいと思っているなら)、その人が生きていることには価値があります。また、本人がそう思えなくても、その人が生きていることを嬉しいと思う誰かがいるならば、そこにおいても、その人が生きていることには価値があります。これは産業主義的ではない意味においては「役に立っている」ということでもあります。ですから、そこでなされていることは、産業主義的ではないあらゆる価値を、産業主義的価値に従属させる、ということです。

 さらに、そのようにカテゴライズされた人々を狙い打つにして死なせた上で、そのようなことをしていると知らせない、自覚させない、死なせたことを忘れてしまう、そのような自己欺瞞の装置がセットで設けられています。第一に、狙った人々を死に追いやるしくみそのものは、事情を知らない人には俄かにわかりにくいものであり、実際、edouard-edouardさんも一見しただけでは、それと気づくことはできなかったわけです(僕とて、ほんの2、3年前、「尊厳死」問題に注視するようになる以前であれば、理解できなかったでしょう)。第二に、そこに「本人の意思」という体裁を被せることで、疑念を持つことを予め封じる手をも打っています。企図されていることとともに、その企図を隠蔽する手口の巧妙さに対しても、戦慄を感じざるをえないわけです。

 整理すると、ここでなされていることは、(α)不都合な人たちを狙い打ちにして死なせることと、(β)死なせたことを忘却すること、です。

 これまでのところ、こうした考え方──「尊厳死」の思想──は、思想として喧伝されてきた段階でした。少なからぬ人が、それを強く批判してきたのですが、少なくとも、それはまだ検討中の問題のはずでした。しかし、今回のこの厚生労働省の発表は、実現するならば、その思想が政策になる、ということを意味します。つまり、思想にそって成果を挙げること──リビングウィルを書かせること──に対して、政府の予算がつけられるわけです。これは、優生思想が絶滅政策になるということです。

 それは、これまで恐ろしいと感じてきたことの中でも、さらに一段突き抜けた意味での恐ろしさであると感じます。こんなことを平然と言える、やれるということは、きわめて残酷なことであると、感じざるをえません。──そして、この「絶滅政策」を見抜くことができるのか、見抜いて反対の意思を示すことができるのか、その動きそのものを止めることができるのか、日本社会に暮らす一人一人が問われている、ということでもあります。被害者であるにせよ加害者であるにせよ、私たちは、誰一人として、この問題と(も)無関係ではありません。


※ ついでに、尊厳死に関連する過去のエントリを整理*3

立岩真也氏のサイトの関連ページと(このテーマについての)主著。

弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術

弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術

*1:もちろん、「選択」と呼ぶに値しないわけですが。

*2:「急性期医療に医者や費用を回すために慢性期病棟の患者への圧力をますます強めると張り切って語っている」とのこと。

*3:結構前の記事なので、細かいところでは、今と意見が変わっていたりすることもあるかもしれませんが、大筋では変わっていないと思います。