怒りの自由市場の不安定性
人が、怒るべきことだと自らに直接に思えることについて怒り、周囲は、それに共感したり理解しようと努めたりするとしても巻き込まれないでいられるならば、怒りは問題の所在を示す大事なパラメータのようなものになるだろう。しかし、「人が怒るべきだと考えていること」を予想して、それに対する同調として怒るという場合には、ある程度以上の人々の怒りを集めてしまうと、集合的な怒りは増幅に増幅を重ねてオーバーフローしてしまう。……ネット炎上やその類の「社会的袋叩き」現象は、ケインズが指摘した金融市場の「美人コンテスト」的不安定性とよく似てる。
怒りがファンダメンタルズ(その人自身の怒り)を反映しているだけなら、怒りの自由市場は安定的に均衡に向かう性質を持ちうるだろう。しかし、他人も怒ると予想されることに対して怒るならば、つまり、怒りがバブル化するならば、しばしば大量の怒りの感情が一点に集中してしまう。後者の動きが前者の動きに対して相対的に小さければ、問題は小さい。実際がどうであるかは、私たちの選好がどのようなものであるか、による。
しかし、もし、私にどう感じられているか、という主観を基準にするならば、「人が怒るべきだと考えていること」は、私にとっても怒るべきだと感じられるような気がしやすいだろうから、実際にはバブルでも、当人はファンダメンタルズにしたがって判断しているつもりになりやすいだろう。それに代えて、現に多くの人が押しかけているところからは自分は一歩引く、つまり、自身の感覚ではなくて、既にそこに現出している感情の総量を基準にするならば、このようなバブルは発生しないはずだ。──ただし、マスメディアに対しては、このような行動原理がまったく期待できない。マスメディアという装置において、まさに「人が怒るべきだと考えていること」を報道することが利益になるからだ。
とはいえ、事態は金融市場の不安定性に比べれば、まだマシな気もする。人々の憎悪が集中する各種の事件について、ほとんどの人は「関係ない」はずだ。「関係ない」ならば、とりあえず怒る必要はないはずで、これが自覚されるだけでも違うだろう。これは「関心を持つな」ということではない。ただ、当事者の怒りに同化するな、というだけのことである。関心は、むしろ持つ必要がある場合もある(それは昨日述べたこととも関わる)。
- 作者: 岩井克人
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2006/07
- メディア: 文庫
- 購入: 1人 クリック: 21回
- この商品を含むブログ (18件) を見る