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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

教育における強制・矯正・共生

 私たちが学ぶ必要があることは、直接的に自分にとって役に立つこと、必要なことだけではない。私たちの社会は、一つの経済をなしており、その中で、十全に暮らせている者もあれば、そうではない者もある。そして、そうではない者たちが十全に暮らすためには、既存の社会構造を前提にして自身の努力で埋め合わせるか、さもなければ社会構造の方に変わってもらわねばならない。*1

 社会構造を変えるとは、私が変えることができるのでもなければ、あなたが変えることができるわけでもない。しかし、あなたと私ならば、変えることができる。そういうものである。あなたと私は、私の生存と生活についての問いを共有し、あなたの生存と生活についての問いを共有しなければならない。あなたの生存と生活が十全なものではないならば、それはあなたと私が共同して解決すべき問いであるし、私の生存と生活が十全なものではない場合にも同様である。

 私の生活が十全なものではないということが、私とあなたによって知られて、共同で解決にあたらねばならない。もし、あなたが知らないならば、知らされなければならない。これは、あなたにとって、あなたの直接的な生存や生活にとっては無関係なものを知らせる、ということである。それどころか、しばしば、あなたの直接的な生存や生活に対しては負担でしかないものを知らせる、ということである。負担でしかないがゆえに、できれば聞きたくない、知りたくない、と思っているようなことを知らせる、ということである。

 自身の(直接的には)負担になるようなことが知らされるためには、次の二つのどちらかが成り立っていなければならない。一つは、すべての人が、そうした自身の負担が増えようとも、ともかく十全に暮らせていない人についての知らせを喜んで聞く態度を持っている、それどころか、どこかに困っている人はいないかといつも探し回っている、そのような人たちばかりであるならば、問題は生じない。しかし、言うまでもなく、こんな想定はできない。だとすれば、いま一つの道しかない。人は、聞きたくない、知りたくないことについても、知らされる。「強制的」に。そういう回路が開かれている必要がある。

 強制的な、そして、これは矯正的でもある何かの上にしか、共生などありえない*2。そして、このように「必要とされる」強制的・矯正的なものがあるとすれば、「批判されるべき」強制的・矯正的なものが別にあるとしても(それがあることに反対する人などいるだろうか)、ただ強制的・矯正的であることを指摘するだけでは批判には足りない、ということだ。


※ 学校廃棄論って、具体的に中身を考えていくと、教育の自由市場論みたいなものにしかならない。なっていない。だから、経済における自由市場論において財の再分配(を必要とする他者)が消えうせるのとパラレルに、教育の自由市場論においても、承認の再分配(を必要とする他者)が消えうせるのも当然のこと。

※ これについては、約二年前にビラまき逮捕の判決に関連して述べたこととも重なる。>「他者の到来を否定する東京高裁」「政治ビラと商業ビラ」「ビラ関連・一応の後始末」

*1:ついつい、経済問題だけに焦点を当ててしまったけれども、以下の記述は、必ずしも経済問題に限定されない。

*2:ま、こんなところでダジャレもアレですが。