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承認と分配──介護の政治と経済

 「障害者は介護者を喜ばせなければならないのか」@世界、障害、ジェンダー、倫理☆
 この記事に対する共感を込めて、気になる点を一つ批判しておく。


 僕としては、人が生きがいを感じたり求めたりすること、それ自体が批判されるべきことではないと考える。それを殊更に言上げするかは別にして、しかし、やりがいはあっていいし、あった方がいいと考える人もいるだろうし、いてもかまわない。とりあえず、これを確認しておく。

 その上で、生じている問題は、次のようなものである。介護保障がなされていない状況では、介護をする側の意思によって介護がなされたりなされなかったりする他はなく、それゆえに介護を(不可欠に)必要とする障害者(=要介護者)の側では、介護者に「感謝しなければならない」「気に入られなければならない」。つまり、介護者が介護を失うこと(やめること)はやりがいを失う以上のことではない、しかし、障害者が介護を失うことは日々の生活の基盤そのものが空白になることを意味する。この非対称性ゆえに、どうしても介護される側は弱く、対等であることができない。

 それゆえに、介護保障に対する意識の欠如とセットになった「やりがい」言説は、要介護者を先の非対称性の中にしばりつけることになる。つまり、介護保障の不在という文脈があるがゆえに、「やりがい」言説が暴力的に作用する。だとすれば、まず批判するべきは文脈であって、言説それ自体ではない。


 ただ、のざりんさんのこの記事にこめられた苛立ち(それは文面からも明らかだろう)を僕も共有する。多くの介護の現場で、「お金よりも大事なことがある」というステレオタイプな言説がまかり通り、介護保障(裏返せば介護者の所得保障でもあるが)のことを口にすると、それだけで白眼視する空気がある。介護者の所得保障の最大の障害の一つが、当の介護者たちのイデオロギーであるというのは、外から見ていると分かりにくいところもあるだろうが、これはかなり地域性があるらしいということは想像しつつ、神戸や京都あたりでは珍しい話ではまったくない。

 その意味で、のざりんさんの記事にある苛立ちを、僕は完全に共有する。現状は、単なる意見の違いを超えて、ほとんどパワハラといってもいい(知らない人は想像しがたいだろうが、これは誇張ではまったくない。)。

 役所の抵抗や無関心もたいへんな問題だが、この種の「福祉主義」の作用もそれと同じくらいに問題にされるべきである。貨幣へのフェティシズムと対をなす、貨幣に対するフォビア(恐怖症)と言ってもいいかもしれない。しかも、こういう言説を吐くのが有給の職員だったりするので、あきれ返ったりもするのだが。


 さらに、もう一度ひっくり返す。しかし、である。たとえば、ajisunさんが「愛される理由」とする記事をあげている。これをステレオタイプな「やりがい」言説と同じものだとするわけにはいかないが、金銭以上の意味付与という側面があるという点では共通してもいる。介護保障には要介護者の生活保障と介護者の生活保障の問題が含まれている。その裏返しとして、介護者でも要介護者でもない人の負担の問題がある。これは分配の問題である。と同時に、そこに人と人が出会う場面があるならば、その人たちの存在承認の問題が、やはり生じる。「あなたは生きていてよい」、「あなたの働きは大事なものである」。こうしたものを「いらない」という人はいていいと思うが、しかし、「いらない」と言わねばならないわけでもない。分配の問題とは別に、承認の問題がある。

 このことは、次のことを考えてみればわかるはずである。たとえば、「雇い主は、雇った労働者を喜ばせなければならないのか」と言えるか。少なくとも、「お前の代わりなどいくらでもいるんだ」とか、「要求した仕事ができないなら、お前なんかクズだ」といった暴言が許されてよいわけではない。暴言は言わないまでも、もっと淡々としていればいい、だろうか。それでもいいかもしれない。しかし、淡々としている以上の、感謝の言葉があってはいけないわけではない。それがあったときに、それを嬉しく思うこともあっていい。それは強要されてはいけないが(介護保障がないところでは、障害者はそれを強要されるから問題なのだ)、しかし、あってはならないものではない。

 冷静に考えてみれば、「分配か、承認か」という問題は、実は既におかしい。分配も承認も、両方あってもいいものである。介護保障がなされるべきだし、同時に、それを実際に担う介護労働者は、実際に労働に従事する人として、確かにこの社会に必要なものを生産している人であると承認されることもともに考えてよいはずである。だから、「分配も、承認も」と言っていい。個人的には、そうした承認は、より多くあっていい、とも思う*1


 というわけで、もう一度最後に(僕の)結論を述べておく。まず批判するべきは文脈であって、言説それ自体ではない。言説が批判される可能性は残っているが、それが仮にあるとすれば、別の理由によるものだと僕は考える。

*1:嘘をついてまで増やす必要はないが。