モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

独立しなかった植民地=沖縄を考える

 「正学校論」@猿゛虎゛日記の、主に前半部分を検討する。

こう言い換えてもいいかもしれません。良心的フランス人が語るのは、植民地バージョン1を、より問題の少ないバージョン2にバージョンアップするとか、そうしたことだけだったわけです。それにたいしてサルトルは、植民地というソフトをアンインストールすべし、といったわけです。

 ここでの「植民地のアンインストール」とは「独立」のことであるようなのだが、果たしてそうなのか。植民地主義への抵抗が目指したもの=目的はそこに住む人々それぞれの自由だったはずであり、独立はそのための手段に過ぎなかったはずである。「しかし、独立ですべての問題が片付くわけではないにせよ、まず独立することは不可欠のはずだ」。このように述べるのだろうか。しかし、このこと自体、検討の余地がある。それはつまり、独立しなかった植民地であるところの沖縄をどう考えるか、という問題でもある。


 沖縄は独立しないことによって、曲がりなりにも日本社会の一員となった。現状、満足のいく状況だとは思わない。だから独立すべきだった、と言えるかどうか。それは少なくとも「わからない」としか言いようがない。個人的な見解として言うならば、独立すべきだったとも思わないし、今からでも独立すべきだとも思わない。

 理由はいくつもあるが、一つだけ述べよう。仮に、沖縄が独立していたならば、沖縄社会は必ずや中国ならびに日本(そこにアメリカを加えてもいい)の領土的野心の中で翻弄されていたはずである。独立は、何の憂いもない清清しい自由を意味しなかったことは明白である。台湾でさえ、あのように不安定な地位にあるのである。沖縄が独立したとして、わずか人口100万の小国に一体何ができたであろうか、と考えるならば、独立なんてとてもとても、という話である。


 しかし、沖縄が独立しなかったからといって、これは単なる服従を意味しない。これは、国際社会の中に孤立する島国として国際法とその国力のみを頼りに自由を勝ち取る闘争と、日本社会を律するはずの日本国憲法を用いて日本社会の国内問題としてその自由を勝ち取る闘争の、どちらをゆくか、という問題である。現に沖縄の置かれている状況は、それに満足しうるものではまったくないけれども、しかし、事あるごとに政治的論点として浮上し、日本社会を揺さぶり続ける異物であり続けている。仮に独立していたとして、このような大きな影響力を日本社会に対して持つことは、おそらく無理だったであろう。このような沖縄の歩んできた道筋は、必ずしも独立によらない道をも示している。これはこれで、一つの(それも有力な)抵抗のあり方なのだ。

 サルトルの発言は、独立へ向かうアルジェリア内部の論調と、それを阻もうとするフランスの「良心的」知識人という文脈があってこそ、意味を持つものである(そういう文脈が本当にあったかどうかは知らないが)。しかし、もし、アルジェリアの人々が、独立ではなくフランスへの統合とフランス憲法による同等の権利の保障を要求していたら、サルトルは何を言った(言うべきだった)のだろうか。──いずれにせよ、サルトルにおける問題は、あくまでも、フランスに住むフランス人として何ができるか、ということなのであり、独立と統合のどちらの道を行くのかは、アルジェリアの人々の問題なのである。このように、独立か統合かという問題は、決してアプリオリに答えが決まっている問題ではない。


 当然、学校における支配という問題においても、学校をなくすという答えに決まっているわけではありえない。そこに何を作るのか、という具体的な検討なくして、何もいえない。私たちの目的は、学校に現にある支配を廃することであり、それが学校をなくすことによるのか、他のどんなやり方によるのかは、決まった話ではないはずである。
 さらに、他の論点も残っており、検討は続ける。とりあえずは、ここまで。

【追記】kurahitoさんとのやり取りについて

 kurahitoさんとのコメントのやりとり、およびトラックバック記事「Siege」について。

人には苦しむ能力と権利があるからです

 そのことを、僕は否定しません。苦しむべきだと感受されうることを直視することは、それを隠蔽するより快適であることはいくらでもあります。

相互受動性であればより深く同意できるのですが。

 「相互受動性」という言い方は僕にはよく分かりませんが、教師も含めてすべての人が「根源的に受動的」なのですから、当然双方が受動的であるはずです。このことは、僕の一番最近のコメントにおいて「暴力であると自称する暴力、支配することと支配されることを同時に現象させる」という言い方をしていることとも符号するはずです。

教育実践というものが、教師という職能集団(自学者の場合は本人一人ですが)の特権とされており

 現にあるような特権化のありようを、僕は批判するでしょう。しかし、そこに専門技術的側面が存在しないかどうかは別の話です。「暴力であると自称する暴力、支配することと支配されることを同時に現象させる」ということが、誰にでも自然にできることであれば別ですが、これらが経験の中で技術として形成されていく側面があるならば、専門技術者としての教師という存在を全否定はできないはずです。これは批判の余地のある論点ですが、結論の決まった話ではないはずです。(医師の専門性のあり方に対する批判は、インフォームド・コンセント、セカンド・オピニオンの「制度化」という形で改善されてきました(と僕は評価します)。教師に対する批判も、専門性は認めつつ変容させるという方向はありうるし、私見では、有力です。ちなみに、僕自身が教師の専門性というものを否定しきれないと思ったのは、大村はまを知ったことが大きいです。)

意識していたのは発達障害自閉症)です。自閉症についてもエリーという子供についてもよくわかっていませんが、ここではモデルとして取上げます。(現実には「生きるしかない」としても)「生きるしかなさ」―制度化された暴力の根拠でもあります―というのは、モジモジさんの言葉でいえばエリーによって「反証可能」なのではないでしょうか。

 手短に次のように述べるとしましょう。自閉症の子でも、「放置すべき」だとは言いません。どのように介入してよいか皆目分からないとき、結果的に放置してしまう状況はありえるでしょうが、望ましいことだとは思いません。イメージ的な言い方で申し訳ないのですが、教育的介入は「頻繁になされるが、(子ども本人によって)簡単に撃退されうる」、そういう形になるだろう、と考えています。──つまり、反証可能ですが、そこで反証されるのは、具体的な場面での具体的な介入のあり方です。(先の受動性を認める限りは)介入が全面的に反証されることはありえないでしょう*1

【追記の2】

 「Siege」の末尾に「再反論という訳ではないのですが」という文章が出ていました。kurahitoさんとこのコメント欄にお邪魔中。

mojimoji 『どうも、こんにちは。
簡単に応答すると、「再反論という訳ではないのですが」に書かれているすべてのことに反対しないし、僕が述べたこと矛盾してもいない、と僕は考えています。「快適」という語の定義が違うだけですし、僕としてはそれをどのように定義しても構いません(それにあわせて表現が変わるだけです)。』 (2007/09/24 16:28)

mojimoji 『最後のところは、反論しなくちゃいけないところかな。追記しますね。

そしてそれらは子の受動性(ニーズ)ではなく、親の能動性(ニーズ)を意味するに過ぎませんから、「快適な暮らし」によって正当化される(/を担保とした)立論は不可能だと思います。

親の能動性か子の受動性かは区別つかんでしょう。また、それらの両方でもありえるし。元々の引用部に戻って言及するなら、「それは人間を認識しないからで、この天使は、母親が子にもつナイーブな「同類-人間」の基準にとっては、動物、というか機械なのです」、一体、この断定を、どんな根拠で行なうことができるのでしょうか?これはまさに「樫村のニーズ」ではないでしょうか。』 (2007/09/24 17:46)

*1:関連して言えば、反証可能性とは体系全体の反証可能性であり、命題の反証可能性ではありません。体系全体が反証されたときにどの命題を修正するかは、たくさんの選択肢があり、そのレベルにおいては、論理というよりアートのレベルの問題に似ています。