収容所としての社会と教育
「学校を廃棄したその後」のコメント欄より。
特に、一番新しいコメントに対して。
toledさんとのやりとりは毎度緊張感がありますね。この問題ではハッキリと立場違うしね。そのあたりをぶつけあってみると面白いもんになるはずだ、とは思うわけです。今回は長くなったので、記事で応答します。
収容所としての学校/社会
その人の中に(いまは)ないものが、どこからやってくるのか。これが第一の問いだ。論理的に二つの可能性しかない。一つは、その人の中から自然にわきおこってくるという発想。いま一つは、内から自然にわきおこってくるわけではなく、少なくとも外からの刺激が必要だという発想。これは形而上学的な立場選択の問題だから、選ぶしかない。これが出発点。僕は、外から来るしかないだろう、という立場である。「自然に」という人については、そのような立場であると表明されれば、とりあえずはよい。そこで違いがハッキリするから、そこからまた考えればいい*1。ここでは僕の話を展開するにあたって、「外から」説を前提として、以下、進める。
そのように考えるならば、人間が何かを生まれて初めて知るという場面の、このどうしようもなく受動的な場面をどのように一人の人生の中に組み込むのか。これが第二の問いである。その刺激は、どこからどのようにしてやってくるか、ということだ。これは学校があろうとなかろうと、私たちがこの社会の中で生きて行くからには、社会の側から刺激され続け、反発したり恭順したりしながら、自己を形成していくことになる。そこをどう考えるのか、ということなわけだ。
その意味で、生きることは、まさに、(学校という目に見える装置が現にあろうとなかろうと)学校の中に生きることそのものである。学校がアプリオリにアウシュヴィッツだと言うならば、それ以前に、この世界は不可避的にアウシュヴィッツである。残念(おそらく、アウシュヴィッツの比喩が、どこかでずれているんだと思います。なぜずれていると言えるのかについては後述)。
だから、僕から見ると、学校の見えないアウシュヴィッツと学校の見えるアウシュヴィッツの間の選択を行なっているのが、ほかならぬ常野さん、ということになる。
※ ついでに申し上げますが、僕は常野さんや貴戸さんに対して、「非現実的だ」という批判をしていません。なぜなら、現実的かどうかを問いうるヴィジョンは、今のところオモテに出てはいないからです。そして、ここで問うているのは「教育を廃絶するためのヴィジョン」ではなく、その後に私たちはどんな世界に住むことになるのかについてのヴィジョンです。革命の戦略についてではなく、革命後の社会像について聞いているのです。手段についてではなく、目標について(とりわけ、それが目標とされる根拠について)聞いています。
ある教育信仰を批判する/すべての教育信仰を批判できない
サルトルがド・ゴール派について言ったことをもじるとすると、「より良いアウシュビッツもより悪いアウシュヴィッツもない。ただアウシュヴィッツがあるだけだ」ということになります。イリイチの自己批判のポイントはまさにここにあります。教育信仰が温存されたままで学校外に「ネットワーク」を作っても、結局は「学校モドキ」になってしまうのです。だからイリイチは、「教育に_おける_オルタナティブ」ではなくて、「教育に_対する_オルタナティブ」を提唱するようになりました。酒井の暴力批判を反転させて言えば、「教育の中に線を引く(=現状の教育を否定して「より良い教育」を志向する)」のではなく、「教育に対して線を引く」ことを求めたのです。精神病院の患者に食料を与えないことと囚人をガス室に送り込むことのどちらが「マシ」などということが(アウシュヴィッツを批判する立場からは)ありえないように、学校の外における実践であろうが、学校的なものになってしまったら元も子もないわけです。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070919/p1#c1190311093
「教育信仰が温存されたままで学校外に「ネットワーク」を作っても、結局は「学校モドキ」になってしまうのです」。まさしくそのとおりだ。そこで目に見える学校という装置から、学校を学校たらしめているエートスに目を向けなければならない。教育信仰が標的にされねばならない。しかし、ここで誤解が生じる。標的にされるべきなのは、そこにある教育信仰の具体的な内容であるのに、「教育に対して信念を持つ(教育信仰を持つ)」という形式が批判されたりする。これは違う。なぜなら、教育に対して何の信念を持たないこともまた、論理的には、教育信仰の一種のはずだから。この勘違いを棄却するならば、現にある教育信仰の具体的内容が批判されるべきなのであり、教育信仰の存在それ自体は不可避のものだ、ということになる。
つまり、「その人の中に(いまは)ないものが、どこからやってくるのか」、「人間が何かを生まれて初めて知るというどうしようもなく受動的な場面をどのように一人の人生の中に組み込むか」、こういう問いについて、どういう答えを与えるか、ということだ。この問いから逃れることはできない。「成り行きに任せる」「生まれてきた者はほっておく」も、ある種の教育信仰から導かれる帰結でしかない。私たちはどのように生きる、暮らすとしても、この問いに既に答えを与えてしまっている。繰り返しになるが、教育信仰を批判するとは、その中身を批判することであり、それとは異なる別の教育信仰を提示することでもある。教育信仰の一切を批判する、ということは不可能である。
僕自身の立場で言えば、人は外からの刺激の中で生きるしかないのだし、それによって自己を形成していくものである。ただ、現にある世界の中に放り込んで成り行きに任せる(そういうやり方もあるでしょう。それならそうと、ハッキリ言えばよいと思います)のでないならば、学校的な何かがそこにある、ということになる。そこを具体的に考えなければならない。僕自身の考えは、既に述べた人間の徹底的な受動性(被投性と言ってもいいかもしれません)についての考えに基づいている。受動性を少しでも脱するためには、様々な知識を得ていくしかない。その象徴が九九や漢字である。このような、これは批判可能なものとして、まずは提示している。
そこで、常野さんや貴戸さんはここにどんな(異なる)答えを与えるのか、ということを問うているわけだ。学校廃棄論において、僕が述べたことに対応する(形而上学的)前提としてどんなものが与えられているのか、ということを聞いているわけだ。「ない」なら「ない」でいいと思うけれど、いずれにせよ、この問いに答えない限り「学校廃絶」を「究極の理想」として設定することは、まさしく「空理空論」でしかない。──誤解のないように言えば、「教育を廃絶する」という発想がラディカルだから「空理空論」なわけではない。そこに理がない、そこに論がないから「空理空論」なのだ。ラディカルであることと「空理空論」であることは別のことなのだから。
※ それでは、なぜアウシュヴィッツの比喩が適切ではないのか。アウシュヴィッツはもともと、人間を消滅させる装置です。それが人間の生に対して持っている含意について、疑問の余地はないはずです。これに対して学校は、問題だらけとはいえ、少なくとも人間が生きたままでそこから出てくる装置です。そして、僕が先に展開したように、人間の根源的な受動性(被投性と言ってもいいでしょう)について考える中で、その役割を否定できないものと述べる余地があります。その論点をきちんと考え抜かずにアウシュヴィッツと(ただ)並べるのは、印象操作以外のものではないでしょう。
※ 学校の中で得た経験によって、学校をアウシュヴィッツそのものだ、と考える人がいることを否定しません。その人が、当事者として、そのように発言していくことを止めません。しかし、そこから「次に」何を述べるか、これからも社会に向かって何かを述べ続けていこうとするならば、自らの体験の中に閉じこもっているわけにはいかないでしょう。それは当事者の特権化に他ならず、多様な当事者のそれぞれを特権化したところに解など成り立ちようがないはずだからです*2。単に「学校は嫌いだ(った)」、「学校なんてなくなればいいのに」ではなく、「学校はなくすべきだ」とまで言いたいなら、当事者性以上のものが要求されるはずです。──それはたとえば、犯罪被害者遺族が、加害者を殺したい、憎いと述べることと、だから死刑にせよと述べることが別の話であることと同じことです*3。
[0,1]について
とまぁ、ここまで書いてきて振り返ると、「1か0か」という以前に、そもそも僕の1と常野さんたちの1を比べるという話なのですね。──でも、常野さんたちは、常野さんたちの1に対してさえ「0.000000001」を述べてはいないのだから、これはこれとして考えておく。
現状では、「0よりはマシだから、0.000000001でガマンしろ」というような言い方が蔓延しているのではないでしょうか? それは「テロの脅威」や「凶悪犯罪」を口実にして市民的自由がなし崩しになっていることや、「ファシストの台頭」を口実にして「勝てる候補」にとにかく結集せよ、というような恫喝が横行することにあらわれていますが、学校を廃絶すべきだというだけでビジョンがないという批判も、僕には同じように聞こえます。それは人間を今ある「現実」のコマに貶める発想であると思います。
「0よりはマシな0.000000001を目指そう」ということは、「0.000000001でガマンしろ」と述べることとは別のこと。我慢などする必要はない。そのまま、0.000000002を目指せばいい。それが難しいなら、0.0000000011でもいい。いずれにせよ、私たちはどこに向かって何をやっていくのか、ということである。むしろ問題は、「0.000000001を目指す」ことを「0.000000001で我慢する」ことに書き換える、そういう言説の形式が蔓延していることであって、これは保守派が多用する唾棄すべき詐術だけど、その詐術をここで常野さんがなぞっているのは、僕には罠に嵌っているようにしか見えない。僕らは「ガマンしろ」を拒否するのであって、それぞれがそれぞれの場所で「0.000000001」を目指す自由は、何があっても守られなければならないはずだ。
テロの脅威や凶悪犯罪については、デリダからの毎度おなじみの引用をここでも出すことにする*4。
私たちは夢想家ではありません。この観点からすれば、どんな政府や国民国家も、その境界を完全に開くつもりがないことは承知していますし、正直なところ、私たち自身もそうしていないことも承知しています。家を、扉もなく、鍵もかけず、等々の状態に放っておきはしないでしょう。自分の身は自分で守る、そうですよね? 正直なところ、これを否定できる人がいるでしょうか?しかし私たちはこの完成可能性への欲望をもっており、この欲望は純粋な歓待という無限の極によって統制されています。もしも条件つきの歓待の概念が私たちにあるとしたら、それは、純粋な歓待の観念、無条件の歓待の観念もあるからです。(『デリダ、脱構築を語る』、p.123)
私たちは、セキュリティなしには生きていけない。少なくとも、そのように思わずして生きていってはいない。しかし、それでも0.000000001であっても開こうとするわけだし、それは大事なことだ。なぜなら、それを経由しなければ、0.000000002開くことはできないのだから。
都知事選のときの「「ファシストの台頭」を口実にして「勝てる候補」にとにかく結集せよ、というような恫喝」を引き合いに出されているので、これについても答えておく。僕のあのときの批判のポイントは、「東京都知事選と「名護で考える」」にて書いたとおりだ。あの時僕が「浅野氏への結集」を批判したのは、それがまさに「0.000000001の次の一歩」を抹殺するような形になったから。まさしく、「0よりはマシだから、0.000000001でガマンしろ」だったわけだ。
では、仮に浅野氏が勝っていたらどうだったか。それは小さい一歩にはなっただろう。あるいは、現にそうなったように、石原氏が過去の都知事選よりは苦戦した、という本当に小さい一歩はどうか。これは次につながる一歩ではないのか。石原が圧勝する東京都に住むよりは、石原を批判する勢力が一定残っていることが示された東京都に住む方がずっとマシなことだとは思う。それは、それでガマンしろ、といことではない。私たちは小さな一歩にしがみつかなければならないけれど、しかし、同時に、小さな一歩で「ガマンしろ」という恫喝には徹底的に反発してよい。これらは別々のことだし、おそらく(間違いなく)両方ともが必要なことです。
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