学校を廃棄したその後
貴戸理恵の不登校系トークラジオ第2回@オール・ニート・ニッポンを聴取。常野さん(id:toledさん)も出演してる。気になった、象徴的な場面を取り上げる。PART5終わり頃の貴戸氏の発言(の大意)。
学校をなくすっていうと、「どこで漢字を覚えるのよ、九九を覚えるのよ、もっと現実的なことを言ってよ」とか言われるんだけど、どっちが本当の意味で現実的なのかと考える。このまま学校って装置を延命して奉って行くことがどこまで現実的なんだ。(PART5の真ん中へん)
http://www.allneetnippon.jp/2007/09/2_12.html
貴戸氏や常野氏の、いろいろ言ってきているところの、ずっと気になっているのはまさにこの点なのだ。「どこで漢字を覚える」、「どこで九九を覚える」、こうした具体的な問題について考えないでどうするんだ、と。もちろん、「漢字や九九」のために、「今ある学校をそのままにしよう」と言う人たちはアホであり、そこまで言わなくても、今とは異なる学校・今とは異なる世界を考えられない、という人もアホだとは思う。そういう論外な人たちはとりあえず置いといて、という話として言うならば、学校を廃棄した後に何を持ってくるのかを、そろそろ考えないとダメだろう。まさか、九九も漢字もできないままに今ある社会に放り出すのだというわけではないし、九九も漢字もできないまま出ても大丈夫な社会を作ろうとか言うなら分からないではないが(全然無理だと思うけど)、ともかく、どこへ行こうとしているのか、それをちゃんと語る必要が、そろそろ、あるだろう。
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どうもお二人の学校廃棄論を聞いていると、少なくとも、これまでのところは、国家廃棄論、市場廃棄論といった類の「見慣れた」ラディカルさでしかない。ラディカルさとは、別に蔑称ではないけれど、とりたてて褒め言葉なわけでもない。アナーキズムをはじめとして、何かを廃棄するという思想は、その廃棄するというラディカルさゆえにではなく、そこに何かを作るヒントがあるからこそ価値がある。たとえばイリッチの学校廃止論は、その代わりに四つのネットワークなるものを提示しており、これは(つっこみどころもあるけれど)随分と魅力的なものである*1。──そうしたビジョンをもたないラディカルなだけのラディカルさは、初撃の新鮮さ、つまりは、お祭りで終わる。そうなってしまうのだとすれば(そうなるかどうかは今後次第だ)、それをあまり生産的なことだと思わない*2。
- 作者: イヴァン・イリッチ,東洋,小澤周三
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お二人のこれまでの発言の蓄積はともかく、このネットラジオ番組自体は2回目でしかないから、リスナーにそれほど前提知識を要求するわけにもいかず*3、という事情は全然分からないではない。だから、この記事は「今はまだ」批判ではない。しかし、いずれは、こうしたことを語らざるをえなくなるはずである。そこで実際に何を言うことになるのか、そこに注目したい。