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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

格差批判とサバイバルは別の話

 「格差社会の原因なんて、みんなとっくに気付いているよね」@novtan別館……このへんから始まって、あと、いろいろ。


 実は、NOV1975氏が書いていること(の一部)は、分からないではない。というのは、次の部分。

格差を全くなくしたらモチベーションがどうとか言っているけれど、本当は、頑張らなくてもそこそこ働いていれば喰っていくくらいは出来る、という社会が理想的だと思います。が、今の現実はそうではない。今更派遣に文句を言うべきではない。何でこうなっているかというと、僕らの世代、あるいはもうちょっと上の人の一部が頑張らなかったからだってこと。虚しいね。

 太字のところをどう読むかだけど、「文句言わずに使い捨てでキリキリ働けー」という意味ならヒドイ話だが、むしろ力点は太字の直後、「何でこうなっているかというと」にあるようにも読める。つまりは、そういう働かせ方が可能になった規制緩和の時代、それを政治的に止めうる位置にいた人たちは止めなかった。これは民主主義の不参加のコストであって、そのツケがまわってきている。しかも、その時代に止めうる位置にはいなかった若い人に。というやりきれない話。それなら理解できる。──ただ、当該記事のその手前の部分とのつながりは、やはりよく分からず、「人並みの生活、というささやかな希望は社会全体で見ると実現不能」「人生仕事だけではないってのは負けに行っている」「頑張らないと、暮らせない」というのは、どう読んでも賛成できない(賛成可能な意味として解釈することが僕には今のところ不可能)。まぁ、このあたりはメモ書きだから仕方ない、ということか。詳しく展開されるのを待った方がいい気がする。


 後は、たとえば、Jonah氏のような解釈(「無題」)も、可能だとは思う。ただ、そのようなことを言いたいならば、一点、ボタンの掛け違えのような相違点(というか、相違していないことが確認できない点)がある。それは、格差社会を批判することと、現にある格差社会でのサバイバルを励ますこととは、別の話である、という点。自己責任論は、これを対立項として書く。自己責任だ、サバイバルは勝手にしろ、という話。だから、これを区別しないで書くと、責任とサバイバルが切り離されているのかどうかが分からなくて、自己責任論と区別がつきにくくなり、自己責任論として読まれやすくなる。ただし、もちろん、これを区別しないで書くからといって、自己責任論であるわけではない。けれども、やっぱり誤解を招くよなぁ、とは思う。ああ、ややこしい。

 つまりは、自己責任論であるという誤解を避けるためには、この点の区別をきちんとするかどうかは大事なポイントだろう。たとえば、僕ならば、こう書く。──責任があろうとなかろうと、現にある状況の中でどうやって生き延びるか(世界は変わるとしても、今日は変わらないなら、今日はこの世界の中で生き延びるしかないのだから)、それは問題だから、そのことは言う。やりようはある*1。ただし、そのやりようは結構しんどくて、そんなにしんどくなければならない理由もないから、確かに格差社会は問題だとしても、しかし、それは今日明日変わるものではないならば、その中でやりようはあるのだから、まぁ、みんな頑張れ。──そういう話なら分かる。おそらくポイントは、「責任があろうとなかろうと」という点をどのように扱うかだ。ここが自己責任論と、それとは区別されたサバイバル推奨論の分かれ目になる。

 ただ、こういうことを「書き手の自己責任」として述べるつもりはない。責任があろうとなかろうと、できるだけ真意の伝わりやすい書き方を模索するものだし、同様に責任があろうとなかろうと、できるだけ書き手の真意を見抜こうと読み方を模索する。それが書き手と読み手の「サバイバル」(というのも変だが)としてなされた方がいい。結果伝わればいいのだし、伝わらなくても仕方はない。その都度の場面で知恵を絞って書いたり読んだりするしかない。

※ 以上の話は、昨日の話とも、実は重なる。ということを、念のため付け加えておく。

*1:今日を生き延びることのやりようが本当にないならば、「頼むから、黙って死んでくれ」と言うしかない。>かつて赤木論文に関連してそう述べた。