問うことと問うことが可能であること
まったく、世の中にはバカな奴がいたものである。
戦争になったらどうするか。戦うに決まっている*1。しかし、「戦争になったらどうするか」という問いが、「戦争になったらどうするか」としか聞いていない、と考えるのはただのバカである。「戦争になったらどうするか」という問いを、戦争になってから問うはずはない。だから、この問いは、常に、戦争になる前に問われる問いである。だとすれば、「戦争になったらどうするか」という問いは、常に、「戦争になる前にはどうするか」という問いと一緒に問われ、答えられるべき問いである。
「戦争反対」などと口にすれば投獄されたり殺されたりするような時代でも、お前はそう言えるのか、と問う奴がいる。こういう輩は間違いなくバカである。言うわけないだろう*2。しかし、この問いもまた、まだ「戦争反対」などと言える時代において、そのように言う輩に向かって問われる問いであるからには、常に、まだ「戦争反対」と言うことができる時代において問われる問いなのである。だから、こんな問いを投げかける奴はバカに決まっている。
どんなことにも、始まりがあり、話している暇があるのは、始まる前である。だから、今、僕らが無駄話をすることができているからには、まだ始まっていない。あるいは、終わっていない。破局がどれほど差し迫った状況にあろうと、まだ話す暇があるからには、それはまだ始まっていない。だから、運命に否応なしに飲み込まれた誰かに自分たちを重ねて語る輩はバカである。そんなことを語る暇があるからには、それは未だ、その重ね合わせるバカにとっての運命ではないのだから*3。