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「退屈な話」の向こうに見えるもの

 女性国際戦犯法廷を傍聴したノーマ・フィールド氏が、傍聴した元慰安婦の証言の様子について、次のように書いている。

 涙を拭いながらの証言はずいぶんあった。見ている者も涙をぬぐう。しかし証言者のうち数人の場合、その語りからことばが次第に消えてゆき、嗚咽に変わる。広い会場で、成人した女性が演劇ではなしに、声を立てて泣くのである。それはこちらが涙を拭って見ているにはあまりにも緊張にみちた場面である。なぜだろう。大人が人前で声を立てて泣く光景は、見る者を心底惨めにする。どうしていいかわからない。子どもが大人の泣くのをみてじっとしている。あの無力感だ。ことばを離れたうめきの流れ、痛みの時間に身をゆだねるしかない。…(ノーマ・フィールド「法律と悲しみと──女性国際戦犯法廷傍聴記」、VAWW-NETジャパン編『裁かれた戦時性暴力』所収)

 僕にも似たような体験がある。それでこのノーマ・フィールドの文章を、うなづきながら読んだのを思い出す。

裁かれた戦時性暴力―「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」とは何であったか

裁かれた戦時性暴力―「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」とは何であったか


 沖縄では、慰霊の日*1が近づくと、それぞれの学校で沖縄戦に関する特別授業が企画される。ある年(確か80年代のはじめ)の特別授業は、ある年配の先生が自身の沖縄戦体験を話すというものだった。
 沖縄戦を学徒動員で体験した人たちが当時16歳くらい。戦後教師になった人が定年するのが、1990年のちょっと前、その頃までは体験者が現役教師としてまだ現場にいた計算になる*2。「そのとき、そこにいた人が、その人の体験を話す」。それだけのことだ。しかし、それだけのことがどれだけのことなのか、そのときまでさっぱり分からなかったし、そのときにもすぐには分からなかった。
 その先生は、隣のクラスの担任の、女性の先生だった。学年主任で、うちのクラスがうるさくしていたときにやってきて「うるさいっ!」と一喝したこともある、どちらかといえば強面の先生だ。インタビュー役の生徒のリードで、話が始まる。──級友や担任の先生とともに急ごしらえの病院とされた壕に配置されたこと、あるとき米軍に入り口を封鎖されて投降を呼びかけられたこと、出て行けば殺されると言われていたので誰も出て行かなかったこと、火を放たれたこと、煙に巻かれたこと、煙を避けて腹ばいになったこと、煙の中で担任の先生が手ぬぐいを濡らしてガスマスク代わりにするよう叫んだこと、水を探したこと、しかしなかったこと、自分の小便を水代わりにしたこと、気を失ったこと、煙が晴れて当たりを見渡すと、級友も先生も皆死んでいたこと、壕の外に出ると米軍も立ち去った後だったこと、さ迷い歩いたこと。語られたことは、そんなことだった。
 内容はいい。僕自身、かなり忘れてもいる。ただ、ハッキリと覚えているのは、その先生は最初から最後までずっと泣きっぱなしだったことだ。大声を上げて号泣し、話ができなかった場面も多々あった。少し落ち着くと話を再開し、しかし、また声を詰まらせる。その繰り返しだった。


 辛い体験を語ることは、辛いことだ。そんなことは、誰でも知っている。しかし、その辛さの質というものは、分からない。理解できない。大人の号泣を前に、僕は自分がきょとんとしていたのを覚えている。「大げさだ」とかなんとかいぶかしんだというのではない。ただ、何も考えることができなかった。固まっていた。無力だった。そういう感触だけは、覚えている。
 後年、記憶とそれを語ることについて、岡真理氏が次のように書いているのを読んだ。

 それは単に、過去に被った暴力的な出来事が思い出されるということではない。もちろん、それだけでも十分に不愉快な、つらいことであるには違いないけれど、フラッシュ・バックとはそれ以上に、記憶に媒介された暴力的な出来事が、今、まさに現在形で生起している、そのような場に自分自身が、そのとき心とからだで感じたあらゆる感情、感覚とともに投げ出され、その暴力にさらされるという経験であるのではないだろうか。(岡真理『記憶/物語』、p.6)

 「今、まさに現在形で生起している」という感覚。語ることの辛さを、このような位相で想像してみたことは、この記述を読む以前にはなかった。記憶とは、語る主体が領有し、語ったり語らなかったり、制御可能なものとしてあるのではない。「人が想起するのではない、人の意思とは無関係に到来する出来事が、人にそれを想起せしめるのである」(p.8)。身を切るような痛み。こんな凡庸な言い方しかできないのがもどかしいが、語るとは、そういうことであるらしい。あの授業の日には、ただ立ちすくむことしかできなかったが、今は少し、理解できるような気がする*3

記憶/物語 (思考のフロンティア)

記憶/物語 (思考のフロンティア)



 さて、ここで取り上げたいのは、もう2年以上前の、ある入試問題をめぐってのやり取りだ。青山学院高等部の英語の入試問題として出題された、元ひめゆり学徒隊の語り部についての文章である。問題とされた部分の訳や出題については、次のページに整理されているので、それを参照して欲しい。>「青山学院高等部の入試問題をめぐる騒動への雑感」
 今更のようにこの文章を取り上げるのは、青山学院を非難したいからではない。青山学院とひめゆり祈念館の間では、話し合いが持たれ、青学側の全面的な謝罪によって既に決着がついている。むしろ、その真摯な対応に敬意を払いたいくらいである*4。しかし、その非難と謝罪の文脈が、きちんと整理されてはいない。問題になった当時も、「言論封殺」というステレオタイプで理解されているように思い、ずっと気にはなっていた。この間、相変わらずの漫画家が相変わらず好き勝手なことを描いているのを見て、この件について、やっぱり書いておこうという気になった。入試問題から引用する。

 その後ひめゆり祈念公園へ移動した。ひめゆり学徒として生き残った女性の話は衝撃的で、戦争のイメージがふくらんだ。しかし正直に言うと、女性の話は退屈だった。彼女が話すほどに、直前の防空壕での強烈な印象が薄れていったからだ。彼女は何度も話しているから、話すたびに話がうまくなっていったのだろうと感じた。彼女の話は、まるで母親が赤ちゃんにベッドで話すように、易しく聞こえた。何人かの友人は彼女の話に心を動かされていたのだが、私にとっては彼女の話は何の意味もなさなかった。

 これと並行的な、しかし、別の道を歩いた思索を紹介する。岡真理は、先に引用した本の中で、従軍慰安婦とされた女性が「私は女の歓びを知らない」と語ったと書いてあるのを読み、その表現の陳腐さにつまづいてしまった体験を書いている。

…わたしは、身体の深みから身をよじって絞り出された、私たちの想像を絶するような、筆舌に尽くしがたい、暴力的な<出来事>のその暴力性を証すその言葉が、「女の歓び」などという使い古された紋切り型の常套句であったという、その気の遠くなるようなギャップに、愕然とするのである。そして、このとき、そのような<出来事>の唯一無比の当事者であるのだから、彼女の口から、彼女でなければ語り得ないような、オリジナルでリアルな言葉でそれが語られることを期待していた自分を発見するのである。(pp.34-35)

 ひめゆりの語り部の話を聞いた高校生と岡真理の分かれ目はここにある。一方は、その語り口を陳腐さとしてあげつらい、伝わらなければ意味がないといい、問題を「伝え方」、つまりは語り手の問題として収斂させていく。それとは違う道があることを、岡真理は示している。聞き手の姿を通して、聞き手が期待するものを浮かび上がらせ、それを通じて、聞き手自身を問題の俎上に乗せるのである。
 私たちに想像可能なことは、ひめゆりの語り部が「うまくなる」までに、彼女はどれだけの嗚咽を乗り越えてきたのだろう、ということだ。初めて話すとき、二回目に話すとき、三回目に話すとき、以下同様。このように考えてくると、記憶を語り継ぐというときには想起されるべきことは、記憶それ自体だけでない、と思えてくる。同時に、記憶を抱えるその人の存在、記憶が語られるときにその記憶がその人の存在の中で再上演されるということの痛み、そうしたことがともに想起されるべきなのだ。「退屈な話」の向こうにそれを見ることができるか。それは語り手ではなく、むしろ、僕らの方が試されている、ということでもある。


 問題は、少なくとも、聞き手と話し手双方の問題である。むしろ、「聞き手の問題である」ことは、どれだけ強調しても強調しすぎることはない。さて、はたして、それは私たちに可能なことだろうか。分からない。けれども、私たちこそが試されているのだということ。そのことは忘れないようにしたいと思う。

*1:慰霊の日とは、沖縄戦の犠牲を悼む日として、沖縄県の条例で定められた県の公休日。

*2:ただ、どこの学校でも普通に見られたのは、年度ごとに採用されている数もあるだろうから、それよりは少し前のことになるだろう。

*3:冒頭の引用部に続けて、ノーマ・フィールド氏は次のように書いている。「それでいいのだ。一義的な当事者でなくても、証言する生存者の苦しみを目撃し、悲しみを共有するのは市民として、人間として、ごく当然のことなのだ」。なんだか、抱きとめられたような気になった一節だ。

*4:もちろん、やりとりの細部については知らないが、しかし、少なくとも、青山学院側の謝罪には何の留保もつけられておらず、その潔さと真摯さは、疑うべくもない。