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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

正戦論の不可能性

 正戦「論」の不可能性であって、正戦の不可能性ではない*1


「避けられた戦争は、常に不正である」とする。宣戦布告にあたって行なわれる演説でも常にそう言われるのだから、これはそうおかしな公理ではない。この公理を受け入れるならば、「正しい戦争は、常に、避けられなかった戦争である」(対偶)。つまり、ある戦争が正しい、あるいは正しかったと述べることは、その戦争は避けることが不可能であったと結論することを含む。しかし、ある戦争が回避不可能であったと最終的に(暫定的にではなく)結論することはできない(科学的知識の(ゆえに、歴史科学的知識の)暫定性)。ゆえに、戦争の最終手段性、科学的知識の暫定性を前提する限り、ある戦争が正しい(正しかった)と述べることはできない*2。■

 このことは、正戦が不可能であることを意味しない。ただ、私たちはそれを知りえない。
 また、このことは、私たちが戦争できない、ことを意味しない。ただ、私たちは、それをただ行なうことだけができるのであり、正しい戦争として行なうことはできない。このことを言い換えれば、私たちが戦争を行うとき、その開始の瞬間まで「この戦争は回避できないのか」と探求しつづけられること、その終結後も「この戦争は回避できなかったのか」と探求しつづけることと同時に行なうのでなければならない、ということである。さらに言い換えれば、私たちが正戦論を口にするとは、戦争の回避可能性を問わないこと(問うのをやめること)と同じである。


 と、一応書き付けてみたが。どっかに穴ないかねぇ・・・。

*1:また、前提抜きの不可能性を語ることはそもそも不可能であって、ゆえに不可能性定理という場合には「何らかの(重要な)公理」との両立不可能性を指す、ということを注意として先に書いておく。

*2:あるいは、戦争は最終手段ではない、(歴史)科学的知識は最終的な結論たりうる、のいずれかを述べることを意味する。どっちもトンデモ。