モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

誰が誰を罵倒しているのか

 えーと「驚異的な根気」の第二弾。とりあえず、一般論から始める。

線引き問題

 剥き出しの敵意に直面するというのは結構消耗するもので、まともに受け止めると(受け止めなくても)、気分が悪くなったりはする。頭痛や吐き気がすることもある。罵倒表現もその一つであり、単に「スルーすればよい」と言って済むことではない。実際、スルーすることは可能であるとしても、誰にでも可能であるわけでもないかもしれず、あるいは、スルーするように自らを構築しなきゃいけないと述べるのも何か違う。単に、そこに生じる気分の悪さというものは、それ自体として問題にしていいと思う。そういうのは少ない方がよく、正直、相手にそういう思いをさせるのは忍びない。

 ただ、罵倒に限らず、正当な批判をぶつけただけだとこちらが思っている場合でも、それを読み取れないバカというのはいて、そのバカは罵倒されたと理解して、イライラムカムカしていたりするんだろう。いい気味、と思わないでもないが、同時に、それは忍びない、とも思う。いずれにせよ、こちらがそうは思っていないのに、罵倒だと受け取られることはある。……しかし、その人が読み取れないこと自体は、単なる事実なのであり、その人がそうであるのは仕方ないことだから、とりあえずこちらは言いたいことは言うにせよ、それを「単なる罵倒に過ぎない」と相手が返してくることもは、ある意味で仕方のないことである。

 他方で、相手が正当な批判をぶつけただけだと思っているところで、こちらから見ればとんでもない誹謗が含まれている(または、それしかない)というようなケースはあり、そのギャップに呆れることもある。ああ、この人自覚ないんだなぁ、と思ったりもするが、しかし、たまにバカを装ってそういう発言をする人もいるにせよ、大抵の場合は天然であり、これもまたその人がそのようにあるのは仕方がないことでもある。

 さらに、述べた両方のケースで、こちらの認識こそが間違っており、相手の認識の方が正しい、ということも十分にありえる。ありえるが、こちらも誠実に考えた末にそのようにしか考えられないのであり、それがバカな誤解であろうと、そのようにしか考えられないのは(少なくとも短期的には)仕方のないことである。

 つまりは、罵倒とそうでないものの境界線、別の言い方をすれば、NG表現とそうでないものの境界線については、難しい問題がある。これってそんなにハッキリ分けられるものだろうか。もちろん、曖昧にであれ、分けようと試みることには意味はあるかもしれない。しかし、曖昧であるというよりも、そもそも分離不可能な絡み合いにしか見えないところがある。つまり、chazuke氏が罵倒表現を用いているし、本人もそれを認めているとして、それに批判的な人たちは罵倒も揶揄もほのめかしもしていません、とおっしゃるつもりなんだろうか。僕には、単に自覚がないだけにしか思えないのだが。たとえば、昨年7月頃のRancelot氏とchazuke氏のやり取りを見てみよう。

chazuke氏とRancelot氏の昨年7月のやりとり

 発端は、chazuke氏の「なぜ専業主婦は叩かれるのか」につけられたRancelot氏の次のブックマーク・コメント。

システムへの批判をすべて人格攻撃として処理してしまう頭の悪い専業主婦が多いからではないですかぁ?

 専業主婦については、現に専業主婦であるような人への人格攻撃と、専業主婦を前提とした様々な制度全体への批判と、それらは両方混在している。で、chazuke氏の元記事は、(現にある)人格攻撃への反論である。逆に言えば、システムへの批判については、chazuke氏は言及していないのである。そこにRancelot氏のこのコメントがつけられた。

 このRancelot氏のコメントは、実に的外れなものだと僕は思う。そもそもシステム批判の存在は、人格批判の非存在を意味しないのだから、このコメントは的外れである。その上で、解釈するとすれば、「人格批判など存在しない、ゆえに、すべての「人格批判」批判は、システム批判へのすれ違った応答である」とRancelot氏は考えていると解釈するしかない。あるいは、「現にある人格批判は、システム批判に対するすれ違いとしての「人格批判」批判がきっかけとなって生まれたものである」とか。他にも解釈可能かもしれないが、簡単に整理すれば次のようになる。chazuke氏は、専業主婦への人格攻撃に対して批判したのだが、Rancelot氏はそれをシステム批判に対するすれ違いの人格攻撃批判として解釈している、ということだ。──Rancelot氏風に言えば、「人格攻撃への批判をすべてシステム批判への誤解として処理してしまう頭の悪いリベラル・フェミニスト」ということになる。

 と同時に、的外れというだけでなく、このコメントのどこがchazuke氏の悪罵と違うのか、僕には分からない。人格攻撃はしていない、と言うのだろうか。しかし、専業主婦である、親であるという事実は、そのように生きているその人の人格においては分かちがたくあるものだと思うが、「頭の悪い専業主婦」「こういう人も親だということにぞっとする」という表現が人格攻撃ではない、というのならば、その基準は僕には理解できない。──もちろん、人格攻撃であるからRancelot氏も謝れ、というつもりもない。ただ、こういうことを棚に上げて、「揶揄された」どうのと言うのは、やはり自覚なさすぎだろう。


 以後、主にchazuke氏の日記とRancelot氏のブクマの間でやり取りが行なわれる。

 その後chazuke氏は口を極めてRancelot氏を罵っているわけだが、Rancelot氏が述べていることは一見穏当な表現に見えても、内容としてはよほど酷いことを言っているように僕には見える。たとえば、先にも引用したが、「こういう人も親だということにぞっとする」など、実に酷い。chazuke氏の肩を持ちすぎ、と言われるかもしれないが、そういいたい人に対しては「お互い様である」とだけ言っておこう。ただ、chazuke氏は自分が相手を罵倒していることを自覚しているわけだが、Rancelot氏の方は自分がやっていることを正当な批判であることを信じて疑っていない、という点では違う。もちろん、自覚していればいい、というわけではない。少なくとも、この問題の難しさをどちらか理解しているかといえば、圧倒的にchazuke氏の方だろうと僕は思う。

 もちろん、これを自覚できないのがRancelot氏の限界なのだとしても、それが限界であるのならば仕方のないことである。あるいは、構図を反転して、Rancelot氏の述べていることの方が妥当であり、それを罵倒だと見なす僕などの方が頓珍漢なのだと言いたければ言ってもいい。しかし、その場合でも、それは単なる事実であり、それもまた仕方のないことである。問題は、このように反転可能な構図において、何が言えるか、である。

他者を「処理」する場?!

 いずれにせよ、Rancelot氏のやっていることは、僕から見ればこういうものである。もちろん、同じ構図が反転しても成り立つ余地がある。だから、僕としては、次のように考える。僕の言説の中で誰かを断罪するとしても、その人が集団的に、共同的に、全体的に断罪されることを求めない。また、僕がある人の言説の中で断罪されるとしても、集団的に、共同的に、全体的に断罪されることを拒む。

 少なくともいえることは、次のことである。なすべきことは、問題とされるべき言説を特定し、それを排除することではない。そんな特定などそもそも可能ではない。だから、誰をも事前的には排除せず、かつ、そこでのギスギスしたやり取りに耐えられないことによって事後的に排除する人が増えぬように、そこで生じるしんどさを減らすことくらいである。たとえば、誰かの敵意をまともに受けることは、しばしば頭痛さえ伴いうる気分の悪いものでありうる。そうだから、それは気にしなければいい=スルーすればいいとだけ言って済むものではない。しかし、だからといって選別して排除するということが可能になるわけではない。せいぜいできることは、それぞれに逃げ場を用意することくらいだろう。

 おそらく、僕が述べているRancelot氏への批判にしても、その意味がちゃんと読み取れないからには、罵倒にしか見えないだろう。また僕から見れば、chazuke氏との絡みでRancelot氏が述べていることにはほとんどすべてに同意できない。こういうことを踏まえて、両方の対立する認識がちゃんと居場所を得られるような状況をこそ求める。であれば、双方が言いたいことを言い合ったら、後は距離を取ることができるようにするくらいしかやりようがないのではないか。もちろん、どちらかの生存や生活が賭けられている場合にはそうも言えないが、幸い、少なくとも今はそういう状況ではない。しかし、Rancelot氏はそれでは我慢がならないらしい。


 その線でいくと、Rancelot氏が次のように述べていることは注目に値する。「もはや彼女に対してどうこう説明する気にもなれない」とした上で、「chazukeさんの問題は彼女の問題ではなく、彼女をどう処理してゆくかという場の問題」と述べている。第一に、問題がchazuke氏にあることはRancelot氏において微塵も揺らがない。自分の方こそが問題なのかもしれない、という恐れはまったくない。そして、第二に、そこが揺らないというだけでなく、彼はその揺らがない確信に従ってchazuke氏を「処理する場」の必要性を提起する。「処理」とは一体どのようにすることを言うのだろう。まったく、怖いことを言う人である。

 おそらく、Rancelot氏の頭の中では、「いじめを黙って見過ごしてはいけない」とか、そういう問題として、この問題が見えているのであろうな。しかし、彼は本人と言葉をやり取りすることは既に諦めているのだから、彼が言っていることは、chazuke氏を直接批判するまでもなく、chazuke氏が「処理」されるような場が生じることを期待する、ということである。これは「いじめっ子はいじめてよい」と述べているに等しい。そして、誰がいじめっ子であるかは、誰も決めていないのにいつのまにか集合的に決まる(擬似民主的に決まる)のである。もちろん、その集合的決定に参加するRancelot氏自身の答えはハッキリしている。そして、そこに同調する人を募っているのであり、それに対して異を唱える人は「評する」だけで「議論をかみ合わせるつもりがない」のである。そして、この「民主的」決定の巧妙なところは、chazuke氏こそが(そして、chazuke氏を擁護する連中こそが)問題であるという前提は、どの段階においても問い直されることがないという点である。まったく、ナチスはどっちだよ。

「いじめを見過ごすな」というような言説には、僕は賛成である。しかし、自分が相手をいじめているのか、相手が自分をいじめているのか、どちらが正しい構図であるのか、分かったものではないのである。事態はいつでも両義的である。実際、いじめっ子にいじめる理由を問いただすならば、その理由を答えるだろう。いじめの問題は、その理由の妥当性にあるのではない。一方が正当ないじめの理由を定義し、他方に適用するというような構図そのものが問題なのである。その構図を拒否したいならば、あくまでも相手を語りかける対象として扱うしかない。僕が注意することは、単純化すれば二つである。一つは、何かを語るとすれば、相手に直接語りかける言葉として語ることである。いま一つは、(できれば)最終的なトドメをささないようにする、ということである。

 その意味で言えば、chazuke氏はリンクもトラバもしないで「コソコソ」悪口を言っているなどといわれるが、それに比べて僕はリンクもトラバも使うことが多いわけだが、自分の方が相対的に上等なふるまいをしているなどと思ったことはない。相手に呼びかけることは、それ自体暴力である。内容がどれほど的を射ていようとも、それが理解できるかできないかはわからないのであり、同時に、本当に的を射ているか射ていないかは分からないのであり、だから受け手の気持ちのしんどさという意味では、罵倒と何も変わらない。リンクもトラバもそれを読むように仕向けるのだから、ずっと侵襲的である。もちろん、「コソコソ」路線こそが正しい、と言うつもりもない。しかし、「コソコソ」なされた揶揄が的を射たものであるならば、揶揄された方も知らないフリをしつつそれを取り入れることもできるのであり、必ずしも「コソコソ」だから嫌だ、というものでもない。面と向かって言われる方が返答に困る場面はあるだろう。リアル世界においては、婉曲表現であるとか、個別に呼び出してコッソリ言うとか、そういうことは必ずしも否定的にしか作用しないわけではない。ましてや、トラックバックしておきながら「読んで欲しいと思ったからトラバしたわけではない」などと言うに至っては、何をかいわんや、である。


 もちろん、相手の敵意に晒されながらそんなこと考える余裕がないこともある。いつでもうまくやれるわけではない。僕以外の人間がうまくやれていない場面を見ても、それをあげつらうこともしようと思わない。その余裕がない場合には、(生存、生活を脅かされているのでない限りは)単に相手にしない、ということでいいように思う。支配されることだけでなく、支配することも共に拒否するつもりなら、付き合いきれないなら「付き合わない」ということしかできないように思う。言いたいことを言い合ったなら、それは納得されてなくても、言われた側の心の中にも必ず残る。時間をかけて変わることもあれば、全然変わらないこともあるが、しかし、そんなことを言っても詮無いことだ。少なくとも、せっかちさゆえに他人を支配したくなるくらいなら、まずはその場を離れた方がいい。また、時間をおいて少し休んで余裕を持ってから、絡みたければ絡めばいい。

おまけ

 だから、罵倒表現については、スルーすれば済む話じゃないことも知っているし、それなりに気にはなることがある。しかし、表現規制が市場的=民主的=自主的に作られるものであっても、誰が誰を罵倒しているのかを「誰が決めるのか」という点について、許容しうる答えを与えるものではない。僕としては、まずは何でもありであって、その上で一人一人を個別に支えていく、というより他に考え付くことはない。

 たとえばid:aozora21さん。僕はaozora21氏がchazuke氏に対してつけたブクマを読んだ。

他者のことばに癒される喜びを知るのなら自分が放ったことばが誰かを傷つけている可能性にも直目して欲しいです。凄くすばらしいことが書かれているのにどうして人をそのように罵るのか、私はそれが残念なのです。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/chazuke/20070618

これをchazuke氏が激しい罵倒で返しているわけなんだけれども、その意味は分かる気がする。罵倒が問題になるなら、あれもこれもそれも問題になるべきところで、chazuke氏の書いたことだけが問題にされているなら(されている)、それ自体が問題だとも思える。また、そのような構図の中で、「罵倒をやめればいいのに」と述べることは、それ自体罵倒だとchazuke氏が受け取りうることについて、僕は理解できるように思う。aozora21さんとしては「凄くすばらしいことが書かれているのに」とまで言っているのに強烈な罵倒で返されて意味が理解できないところがあると思うけれども、そこには(分かりにくくとも)やはり理があるように僕には見える。もちろん、罵倒以外の応答もできるのではないか、と思わないではない。しかし、それぞれがそのように言ったことには、それぞれの必然性がある。間を埋めうるとすれば時間をかけて考えるより他なく、後はある程度距離をとって、それぞれのぶつけられた敵意のもたらすゲンナリとした気分をやり過ごせれば、くらいのことしか思い浮かばない。

 その上で、chazuke氏は先の記事の中で「でも残念ながら私はaozora21さんの「日記」は読みません。面白くないんで」と書いておられるのだけれども、これは普通に投げ返された人はきついだろうな、と思う。ただ、chazukeさんに自主規制や謝罪を求めるよりは、別のことを述べた方がよいとは思う。僕としてはaozora21さんの日記を面白いと思って読んだことは幾度か(も)ある、と、正直に述べておく。性急に、chazuke氏との認識を一致させる必要はない。chazuke氏の罵倒がきついなら、当面は読まないようにしたらいいと思うし、読める気力があるなら、彼女の罵倒にはそれなりの必然性があるものとして読んでみることをオススメする。

 他方、残念ながらRancelot氏の書くものについては呆れたことしかないのだけれど、それでもそれほど沢山読んだわけではないから、どこかには何かいいことを書いていることもあるのかもしれない。僕の彼への評価とは別に、彼の良いところを見つけて彼に対して述べうる人は、誰かいるだろう。僕やchazuke氏に拒否されたからといってジタバタする必要はない。ただ、Rancelot氏が僕や誰かに向かって何か言いたければ言えばいいし、僕にしても誰かにしても何か返したいと思えば返すだろう。それをできる範囲で淡々とやればいい。僕はRancelot氏に支配されるのはゴメン被るが、彼を支配したいとも思わない。

 今回、chazuke氏に対して肯定的なコメントをつけたのは、chazuke氏本人と対話を諦めたはずの連中がそれでも影響を及ぼさんとしてまとわりつくというところに邪なものを感じたからだ。その邪さというのは、本記事中で十分説明したと思う。

 大事なことは、できるだけ言いたいことが互いに言われて、その中で一人一人がうけるしんどさができるだけ軽い方がよくて、同時に、最後に全員がちゃんと立っていられていることではないか、と思う。後は気の長いやりとり(およびその中断)の中で何事かがゆっくり進んでいけばいい。そう期待する。