モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

倫理の根源は呼びかけにある

 5月9日の記事(応答責任、再論)から、sivadさんの4月の記事トラックバックを送ったところ、さっそくお返事をいただいた。>倫理の根源は想像力にあると思う@赤の女王とお茶を
 ここでsivadさんが「想像力」というキーワードを提起したことで、違いがより鮮明になってきたと思う。以下、議論したい。

 ホームレスのそばを通り過ぎたとき「間接的ではあろうが、私は他人を見殺しにすることに加担した」と言えるであろうか(以上、kanjinai氏の記事からの引用)

への答えは「言える。ただし、加担していない、とも言える。」になります。可能かどうかということであれば、いずれも可能というしかありません。

 この部分に、まず同意できない。元の文を次のように言い換えてみよう。「私は他人を見殺しにした」。意味合いは変わっていないと思うが、こう書き直せば明瞭であるように、これは事実についての命題である。そして、事実命題として考える限り、「見殺しにした」は真であり、「加担していない」とは言えない。「いずれも可能」とは言えない。そのようになるはずだと思う。このことは「道徳的詐術とは何か、その2」で、特に「資源の代替的用途」のところでも検討した。様々でありえるのは、(見殺しにしたという事実を踏まえて)「次の私の(あなたの)行動がどう選ばれるか」という点であり、それは先の事実問題とは区別されるべきものである。

もう一つがより根源的だと私が思う、「想像力」です。

 法的・倫理的責任に先行する根源的な責任として、僕は「応答責任」という概念を持ち出したわけだが、sivad氏においては、その同じ位置に「想像力」というものが置かれている。この二つが異なる、ということをまず示しておこう。
 応答責任というのは、それが「応答」という語を冠していることからも分かるように、まず先に「呼びかけ」があるのである。私たちがそれに応答しようとしまいと、呼びかけは存在している。同様に、私たちが気づこうと気づくまいと、呼びかけは存在しているのである。これに対して「想像力」というのは、その人自身の中から湧き起こってくるものであり、(sivad氏が言うように)ある人もない人も、あっても強い人も弱い人も、その他のもっと多様に異なった違いを持つ人も、いる。呼びかけは、こうしたものとは違う。その人の想像力の有無、強弱、その他性質に関わらず、呼びかけは向けられている。
 一つ注意をしておこう。呼びかけとは、他者の能動的な行為としての呼びかけ、と理解されてはならない。先に確認した事実──「見殺しにしている」という事実──と、切り離すことのできないものとして存在するものである。「飢えて死にそうな人が行き倒れて、ぐったりとそこに横たわっている」という事実と「ほっとけば、その人はそのまま死ぬ」という事実が、切り離しがたく一つの現実の中にあるのだ。あるいは、別様に言おう。一つの事実から、「見殺しにしている」、「飢えて死にそうな人が行き倒れている」、「その人の生を支えるものが、私の手元にある」、といった諸々の事実言明を同時に引き出しうるのである。この意味で、事実と事実言明は区別される必要がある。


 以上のことから、次の部分は僕への批判として妥当でないことが言える。

ここで問題なのは、こういった「想像力」は一種の「能力」であって、万人に共通ではないということです。
mojimojiさんは「私たちが感じているあの重苦しさ」とおっしゃいますが、必ずしも誰もが感じているわけではない。感じていても、程度は様々でしょう。
言葉があれば一応誰でも状況だけは想定できるでしょうが、やはりできない人は感情を伴う「想像」ができないのです。

 たとえば、「私たちが見たあの光は、一体なんなのだろう」という問いを立てるとき、視覚という感覚はは万人に共通のものではないのだが、だからといって問いかけそのものが一般的に無意味であるということにはならない。もちろん、視覚を持たぬ人に向かって言ったならば、的外れな問いかけ、ということになろう。
 同様に、上記引用部で僕が「私たち」という言い方をしているのは、「sivadさんは感じているだろう」という想定を明らかにしているのであり、同時に、「この記事を読む人の中で感じているだろう人に対しても問いかけている」ということを明らかにしているのである。逆に言えば、それを感じていない人は、「私は感じていない」と言えばよい。というよりも、感じていない人は、僕が何を言っているのかそもそも理解できないだろう。しかし、sivad氏は明らかに内容を理解しているのだから、この部分はsivad氏への問いかけとして十分に有意味なのである*1
 その上で、次のことを確認しておこう。重苦しさの感覚そのものは「万人に共通」ではないとしても、重苦しさをもたらすところの「呼びかけ」は、「万人に共通」である。この呼びかけがある種の人たちには重苦しさをもたらしていないとしても、その人たちにとっても呼びかけは存在しているのである。

自分はこう感じる、はいいとして、「感じない」人に対して「感じるべきだ」と言ってもあまり意味はなく、できるのは「感じない人でも感じるような方法」あるいは「感じなくても倫理を構築できる方法」をなんとか考えていくことなんじゃないかと。

 そもそも、このような問題設定自体間違っていると、僕は思う。というような意味のことをずっと言ってきたし、考えている。それは、先に述べたことでもある。「感じなくても倫理を構築できる方法」などというのは、多分解けない問題であって、むしろ、「(一部に感じない人が残っていても)感じる人が目を逸らさせないことで倫理を構築できる」方法を考えた方が近い、と思っている。だから、僕の視野に、「感じない」人は最初から入っていない。「感じない」人の中には「感じないフリをしている」人も結構いそうだから、そのつもりで呼びかけはするけども、本当に感じていないのであれば、そういう人に(僕が)つける薬はないと思う。
 だから、sivad氏が「ここで問題なのは」と言っていることは、少なくとも、僕にとっては問題ではないのである。「万人に共通の前提」で語ることは、「万人に共通に信じられている前提」で語ることとは違うのだが、しばしば、置き換えられる。その意味でこれは錯覚なのである。そして、この錯覚が決して珍しいものではないということが、問題の根深さの一つだと、僕には思われる。


「そして他者の感情をシミュレートする能力を得て初めて、人間は「倫理」を得たのではないでしょうか」という風に言われるのだけれど、僕の感覚としては、むしろ、倫理があるからシミュレートする能力も生まれてきうるんじゃないか、という感じ。けど、ここは余談なので、このくらいで。

*1:「あなたがもし○○を感じているならば」という限定句を使わずとも、この限定句の意味内容は自然と意味されてしまうところがある。