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市場での/市場へのコミット

 無力な者を前にして、何ができるか。何をするか。という話のときに、ともかく市場の中で努力して、総量を増やすことが貧しい者・無力な者のためにもなる、という話がある。これはたとえば、先日批判してきたkeya1984氏も「現存の政治運動に限らなくていい。たとえば、労働対価の中から支払った税金の一部が福祉予算となったり」といったことを述べている。Arisanのノートでも問題にされていたのだが*1、こうした発想はあちこちに蔓延している。
 しかし、市場内/外の努力を、そのように同列に扱えるものだろうか。昨日までの話とは少し違う論点だが、いずれ関連する論点ではある。今回は、これを考える。


 基本的な事実として、市場とは、金を持っている者のために商品を提供する仕組みである。その限りでは極めて効率的に機能する。しかし、金を持ってない者の前は、素通りする。──「だから市場はダメだ」とも言わない。単に、何かを必要とする者に、金を渡せばよい。再分配の仕組みと併用するならば、市場は必要な者に必要な物を効率的に送り届ける有効な手段ともなる*2

 しかし、市場そのものは無力な者に金を渡さない。市場は、基本的には、その人が市場に提供する物に応じて、金を渡す。労働を提供する者にも、資本を提供する者にも、その限界生産物価値に応じて、所得が分配される*3。だから、労働も資本も持たない者、持っていても大した額では売れない者は金を持たず、その人の元には、市場の成果は分配されない。

 市場の中で努力することは、その総量を増やすことではあろうが、しかし、その限りでは、それが誰に届けられるのかは別の話である。市場は、市場の中にいる者だけを豊かにし、そこから外れた者を放置にする。だから、市場を補完する仕組みとして所得再分配が必要だ、ということになるのだが、市場を補完する仕組みを作るのは、市場内での努力ではありえない。それは政治活動であり、市場外活動である。だから、市場内の努力で事足れり、とする発想は、それ自体錯覚である。僕が「道徳的詐術とは何か」で述べた「コミット」とは、市場外活動へのコミットを含まなければならない。

 もちろん、市場内活動を拒否する必要はない。それは大事なことであり、むしろ、市場外活動が分配する原資を作るという意味で、市場外活動の前提となることでもある*4。だから、できる人はやればいいし、やった方がいいし、できる人・できることの総量は多い方がいい。しかし、繰り返すが、それだけでは足りない、ということである。政治活動を経済活動に翻訳することは、結局のところできない。市場でのコミットでは足りない。市場へのコミットを併せて必要とする。

*1:労働しているだけで困窮者を救うことにつながる、という言説について」@Arisanのノート。

*2:もちろん、しばしば問題とされるのは渡す金をどこかから調達する必要があることであり、この財源調達が負担者の「労働のインセンティブを阻害する」などとしばしば言われる。しかし、ここでの労働とは、賃労働のことであり、よって、この言い方は両義的である。すなわち、次のような言い方もできる。──むしろ賃労働のインセンティブが強すぎて、不払労働へのインセンティブを阻害している。

*3:ということになっているが、この想定自体が議論されるべきである。しかし、ここではそれを真に受けて議論を進める。

*4:その意味で、「働かなくてもいい」という言説には、限定的にしか賛成しない。限定的にとは、「今、このようにある社会の中では」働かなくてよい、という言説を支持しうるが、しかし、それが普遍的な主張であるとしたら、(誰かが)働くことはやはり必要ではあるのだから、支持できない。そういう話。