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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

応答責任、再論

 応答責任について、再度確認しておこう。
 たとえば、ほっておけば自分では何もできないであろう赤子*1がいて、それを見ている人がいるとする。その人は、その赤子の面倒を見るのだ、と決意したとする。ある人は、そこで初めて倫理的責任が生じたのだ、と言う。そして、そうした何らかの手続きを経てその人に引き受けられた責任にしたがって、その赤子の面倒を見る、つまり、責任を果たす。──しかし、こうした記述は、私たちが無力な者を目撃するときに生じている様々なことどもを、きちんと捉えているだろうか。


 次のような問いを立ててみよう。赤子の面倒を見ると決意したその人が、決意する前に考えることは一体何であろうか。明らかなことは、その人は決意する前には何ら強いられるような感覚を感じず、自らの意志によって決意したときに初めて何かの強いられる感覚を感じる、というようなものではないということだ。私たちは、決心しようとしまいと、無力な者を目撃しているというその時に既に、何らかの圧力──「私を生かせ」と訴える<顔>──を感じるのである。引き受ける決意(あるいは、逃げ出そうという決意)は、むしろ、その後にやってくる。

 また、次のようにも考えてみよう。その人が逃げ出したとする。そのようなとき、多くの人は、良心の痛みを感じるだろう。その人は倫理的責任を引き受けたりはしていないのに、では一体、何に由来する痛みを感じているのか。重要なことは、その人が個人的決断によって倫理的責任を引き受けたから痛みを感じているのではない、ということだ。ここでの痛みとは、そうした決断に先行して生じている。「俺は関係ない」と叫んで逃げ出すとき、ただ離れるのではなく、そう叫ぶように強いられているような感覚の中で離れるのである*2

 あるいは、次の問いはどうだろう。その人が逃げた後で、心の痛みを感じて確かめにいくと、別の誰かがその赤子を拾い上げ、面倒を見ていた。おそらく、先に逃げたその人はほっとする。しかし、それは一体いかなる感情なのか。それは「私が見殺しにしたことにならなくてよかった」ということだろうか。それとも、「その赤子が死ななくて良かった」という感情だろうか。これらはハッキリとは分けられず、多分両方あるというのが正しいのだが、しかし、それらの感情はどこから湧いてきているのだろうか。いつか、どこかで、その子の生そのものについて責任を引き受けたりなど、してはいないのに。責任として引き受けたものを守る=規則を遵守するというのとは別の次元にある何かを、その何かから強いられる感覚を、持っているのである。

 だから、「責任は、なんらかの手続きによってその人に引き受けられたときに、初めて生じる」とする説はすべて、それは間違いではないとしても、不十分である。それは、何も説明していない。ここでの責任(=法的責任や倫理的責任)が引き受けられようとするとき、そのように引き受けることを促すものは何か、という問いに答えていないからだ。あるいは、その問いに答えないためにこそ、こうした説明がなされているとさえ思われる。


 では、何があるのか。引き受ける人の自由があり、自由の行使によって引き受けられる、という事態がある。これが間違いとまでは言えないにせよ、しかし、少なくともそれだけではない。私たちは、他者の存在を感じ、その存在が何によって支えられているかを感じ、その支えになるものがそこにあるのか(ないのか)を感じる。つまり、その他者の存在が、この世界の中に肯定されて、支えられてあるのか、それとも支えられておらず、ほっておけばそのまま消え逝くだろうような仕方で、否定された形であるのかを、知る。そのことが、直接にもたらす圧力がある。私たちが自由の行使によって責任を引き受けるとしても、この圧力、責任を引き受ける方向で自由を行使するように促す圧力について語らないでいるならば、それは十分な説明ではないのである。
 これを責任と呼ぶのは、責任概念の野放図な拡張、言葉の遊びだ、と言う人もいるだろう。しかし、自由そのものというよりもむしろ自由の制約条件として働いているこの力を、自由という言葉の内に表現するのは明らかにおかしい*3。それに比べれば応答責任という概念は、そこで生じている物事の本質を真面目に捉えようとする概念であるとは言える。それは私たちが重荷に思う事実についての概念であり、責任概念が存在するものの位相に由来を持つことを捉えようとする概念である。


【追記】2007/05/30
 このエントリで批判したかったのは、たとえば次のような議論なのだった。

「責任」というのは自然における因果を示す概念ではなく、人間・社会がそれらを元に「設定」する人工的な関係なのです。人や社会が生きていくための「ルール」であって、自然法則ではない。
http://d.hatena.ne.jp/sivad/20070417#p1

 このような考え方からすれば、法的責任や倫理的責任は、制度として「創造される」のである。こういう議論に接して疑問に思うのは、私たちが法的責任や倫理的責任を考え始める、まさにその瞬間において私たちが感じているあの重苦しさとは、一体何なのか、ということである。責任が引き受けられる=創造されるとき、その引き受けられる=創造される場そのものは一体どうなっているのか、ということである。それ抜きに責任論を考えることは、結局のところ責任を場当たり的な、気まぐれなものとしてしか位置づけられなくなると思うのだが、そのあたりはどうなっているのだろう?

*1:病人でもなんでもいい。

*2:この叫びは、声として発せられている必要はないし、明確な言語として頭の中で想起されている必要さえない。

*3:これについて、レヴィナスは面白い言い方をしている。「哲学するとは自由のてまえにさかのぼり、自由を恣意から自由にするような、自由の任命を発見することである」(『全体性と無限』(岩波文庫版、上巻)、p.157)。