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メタメタゲームを降りてみる

この前ダーウィンの悪夢という映画を見ました。アフリカの貧しさとその上に成り立ってる先進国の幸福を切り口にした映画でしたが深い感銘を受けました。しかし私はそんなアフリカに対して何もしませんでした。映画を見て切なくなり、自己反省しただけのナルシストだと思いました。/ホームレスを見て嫌悪感を示す人、ホームレスなんて怠け者なんだから自業自得、と切り捨てる人がいます。そして、ホームレスに無関心な人、どうせおれらは何もできないんだから、心痛めたってしょうがない、という人もいます。/そして、私のようなタイプですが、ホームレスをヒトゴトとして捉えず、しかし助けることもしないが、心を痛めてる人もいます。そしてそんな卑怯な自分を責めています。/ホームレスを嫌悪するでもなく、他人事とするでもなく、せめて何もしてあげられないまでも自分の卑怯さを直視している立場はまだましだ、と思っていました。/しかし、それは最近違うな、と感じました。結局私は「直視している私」に酔っている気がしました。「ああ、おれって悪い奴なんだ。。。」という考え方に束縛されて他者をシャットアウトしている気がしました。/そして極限を想定して問題を論じる姿勢はいかがなものか派の人たちは私のそのようなナルシストっぷりの臭いを敏感に感じて嫌悪感が走ったのではないかな、と思いました。(姥捨山問題をめぐってG★RDIASに寄せられたコメントより)

 これを「そのとおりだ」と僕も述べた上で、しかし、言いたいこと。
 他人のナルシシズムを批判するときには、「それはナルシシズムだ。ナルシシズムを抜け出して実際に何かやってみよう」と呼びかけてもいいし、「ナルシシズムも開き直りも同じ(そして結局何もしない)」と呼びかけてもいい。どちらも可能。なのに後者になるとすれば、その選択自体はナルシシズムの問題とは別に考えられるべきことだ。
 ナルシシズムを批判するメタ・ナルシシズムというか。自称「右でも左でもない」人の左翼批判とかもまったく同じ話。メタにもぐりこむ人は、そのまたメタがあることを(都合よく)忘れる、というような問題がある。どうしてそんな単純な落とし穴にはまるのだろうか、とよく思う。所詮、メタメタゲームは何をどうやっても千日手で行き詰まるのみ。とりあえずはメタメタゲームなんかやめて、いけるところまで徹底的にベタでいってみればいいと思う*1


 ちなみに、リンク先でkanjinaiさんも言及してますが、『ダーウィンの悪夢』という番組自体に問題があるというのは、割と有名な話らしいので、そこは注意(本論とは無関係なので、あえてそこは論点にしません)。

*1:とはいえ、ベタって、結構果てしないので、行けども行けどもベタをやめるきっかけも見えないけど。