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姥捨山問題と僕

 なんか、アレなタイトルですけども。sugitaさんとこでの考察、僕の論についても言及されているので、簡単に応答する。姥捨山問題そのものがわからない人は、次のページを参照のこと。>森岡正博「姥捨山問題」


 僕自身は、あまり出来のいい答えではないにせよ、少なくとも姥捨山問題以後を考えているつもり。基本線として、x0000000000さんの指摘(姥捨山問題をめぐって@G★RDIAS)とまったく同じことを考えている。「できないのではなく、しない」、「しないことをできない、と言うのが問題」というところ。

 じゃ、なぜ「しないことをできない、と言うのが問題」なのか。「できない」と言うとき、「できない」のだから、そこで話は終わる。しかし、「しない」を認めるとき、だから「する」わけではないにせよ、「しない」のが自分だけではないこともほぼ同時に理解できる。すると、「一緒にやろう」、もっと品悪く言えば「おまえもやれ」という話が立ち上がってくる。──つまり、「できるのにしない」ことを「できない」と言ってしまう欺瞞が問題なのは「一緒にやろう」「おまえもやれ」という呼びかけを封じてしまうから。と考えてる(あるいは、文脈によっては、「おまえ「が」やれ」でもいいと思うけど)。

 だから、僕自身が「一緒にやろう」「おまえもやれ」と述べるとき、僕自身は生存ギリギリを超える一切を捧げきってから言うのではない。特権的な様々なものを僕は僕自身として味わいながら「やる」と自分できめたことをやるだけ。それ以上のことはできるが、「しない」。それをハッキリさせながら、もう一つ多くやる、お前もやれと呼びかける、そういうことをやっていく。で、それで十分だ、とも言わない。現に奪われている人たちが、「これ以上は待てない」と言って世界を破壊するならば、それを残念に思うとしても、それを悪いことだとは思わない。思えない。「そんなことをするべきではない」とは言わない。代わりに「黙って死んでくれ」と言う。──赤木論文との関連で述べたことも、こういうことだったと思う。赤木さんへの応答に限らず、僕の書くものは基本的に姥捨山問題を強く意識しながら書いてるつもりだったり。

※ ついでに言うと、周囲に向かって「一緒にやろう、おまえもやれ」と言う代わりに、捨てられる人に「死ね」と言ってもいいわけです。だったら、嘘つかずに堂々と言おうよ、と。それをハッキリさせてくれれば、別のやりようがあるわけですから、それも考慮にいれて堂々と「死ね」と言える人がいれば、それについてはまた考えます(あるいは行動します)。

※ もう少し言葉を継ぎ足しましょう。/姥捨山問題以前であれば、「家族と患者が両方「生存しかできない」状況」については、救命ボートとみなさないわけです。「ちゃんと生きられる」と言ってしまう。僕はそうは見なさない。「家族と患者が両方生存できて、かつ生存以上の+αも含めて生きられる」ときに、初めて「救命ボート状況ではない」と言うことができます。αがどの程度になるかは、その経済の実力によるのであり、結構手厚い再分配をしても十分な財が生産できるなら+αは大きくできるし、そうではないならば小さめのところで妥協しないといけないかもしれません。そのように考えています。