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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

萌え絵に萌えて何が悪い!と言うだけでいいのか?

 ロリコン化する社会雑考@G★RDIAS

 個人的にも大事な論点だと思っててブックマークしたら、ブクマが8つもついてしまった。kanjinaiさん曰く、「軽く書いたのに、なんかいきなりブックマークで注目されてしまってあせってますが・・」。スイマセン。責任とって記事書きます。…とはいえ、以下に書くことは、僕自身の問題意識であって、文責は当然僕自身にあります。

 kanjinaiさんのコメントを、少し引用する。

私が具体的に法的規制を提案しているのは、幼い少女(少年)の実写イメージについてです。絵柄の法的規制までは今回は訴えてはいません。今回訴えたかったのは、「萌えは健康だよ〜」「萌えには性的意味はないよ〜」「萌え図柄を社会にばらまいても誰も傷つけたりはしないよ〜」というのは<嘘>だということです。マスコミは、その嘘に乗っかったうえで、萌え記事を発信しているが、これは問題視したほうがいいというが私の意見。

 「(萌え)絵柄の法的規制を提案していない」、というのはポイント。表現の自由を原則認めるとすると、では、その上でどんな話が出てくるか。──表現の自由の行使として萌え絵を提示するならば、その萌え絵の背後に問題性(たとえば背後にペドフィリア的欲望があるのではないか、など)を想像して批判するというのも表現の自由のはず。だから、kanjinai氏が書いているような批判の存在もまた、容認されるべきである。──ここまでは分かりやすい話だろうと思う。


 では、批判にどう応答するのか。決まって言われるのは「萌え絵は誰にも迷惑にならない」、「萌え絵は個人の趣味の問題」、さらには「具体的な誰かの権利が侵害されているわけではないのだから問題にすべきでない」というようなことである。──つまり、その欲望の内実がどういうものであるのかが、構築的に説明されることはない。消極的に「否定できない」と述べられることはあっても、積極的に「これこれこうこうのよきものがある」と言われることはない。これは誠実な応答ではない、と僕は思う。

 これは、たとえば、次のような状況とパラレルである。いじめなどにおいて、A君を他のB、C、D、E…君たちが無視しているとき、「どうして無視するの?」と問うとする。このときしばしば言われるのは、「無視して、何が悪い」という言い方である。逆に、こうした場面で「Aがこれこれこうこうの理由でムカつくから」などと言われるならば、まだ議論の余地があるのである。Aに非があるかもしれず、あるいはAに反論があるかもしれず、そのようにして、対話が開かれる。しかし、確信犯としてなされるいじめの場合には、そのように行動が構築的に正当化されることはなく、そこで無言でいるわけにもいかないから仕方なく発せられる言葉として「無視するなって法律にでも書いてあるのかよ」みたいなことが言われる*1。そのようにして、問題が反省的に取り上げられるきっかけを与えないようにふるまう。それが問題なのだ。

 同様に、萌え絵の擁護においても、消極的な正当化が多用される。これは問いを閉じようとする態度である。とすると気になるのは、問いを閉じようとする欲望、これは一体何を意味するのか。ということである。それは薄々感じている後ろめたさではないのか。違うなら別様の応答がありえるはずではないのか。──そう考えると、「萌えは健康だよ〜」「萌えには性的意味はないよ〜」「萌え図柄を社会にばらまいても誰も傷つけたりはしないよ〜」というのは嘘臭い、と僕も思うのである。

 だからといって、萌え絵を規制せよ、というようなことは(とりあえず今は)僕も言わない。しかし、なんらかの表現を擁護するならば、禁則に触れていないという消極的な正当化ではなく、その表現の意味するところに内在して擁護するというのが必要なマナーだろうと思われる。また、仮に、萌え絵への欲望とペドフィリア的欲望がつながっているとするならば、その通路を遮断できるのは、そのような懐疑心だけであろうと思う。だから、まずは「萌え絵への欲望とは何か」という問いを抱え込むことが、最低限必要なのではないか。

※ 参考図書。

感じない男 (ちくま新書)

感じない男 (ちくま新書)

*1:これと同様のことを、昨年3月末の当ブログでのやり取りでも述べた。>2006年3月28日29日30日31日