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尊厳死を容認する可能性を真面目に考える

 個々に異なっている状況を頭に置いている人同士が議論していては、噛み合わない議論になるのも致し方ない。ALSに即して議論すれば、「ALSばかりが問題ではない」というのももっともだ。ただ、それを言うなら、「ALSについては尊厳死は問題にならない。しかし他がある」と言って欲しい、とも思うのだけど。それなら、分からないではない。

 ともかく、いくつかの状況を区別しつつも、体系的にまとめてみる。尊厳死を認めなきゃいけない状況はありえるのか、あるとしてどこにあるのか、それを整理する。その上で、日本尊厳死協会の議論がどれほどいい加減であるかについても、一言述べる。尊厳死賛成派であっても、日本尊厳死協会の言うことに賛成するかは別の話ですよ。

前提の確認

 まず、尊厳死とは呼ばずに、死の選択、と呼ぶことにする。本人が死を選択することと、そのときに用意されている選択肢が十分なものであるかは別の話。不十分な選択肢しかないところに放置されて、その中から一番マシな選択肢として死を選択する場合には、それは尊厳死とは呼べない。医療・介護をはじめとして十分な*1資源が投入され、生の可能性がきちんと追及・確保された上で、それでもなお死の方が望ましいとして選択するケースのみを、尊厳死と呼ぶことにする。

 もう一つ、自殺幇助が一般的に肯定されるなら、そもそも問題は生じないと思われる。なので、「自殺幇助一般はしてはならないが、ある状況においてはそれをしてよい」という場合の、「ある状況」に該当するものを探す問題として捉える。「ある状況」の候補として、さしあたりは二つ考える。「意思の疎通ができない場合の事前指示、ないし代理決定」、「肉体的な苦痛が持続して耐え難い場合の自己決定」。これ以外にも定式化できるものはあるかと思うが、とりあえずこの二つに絞る。追加の指摘があれば、コメントしていただければ嬉しい。

意思の疎通ができない場合

 意思の疎通ができない場合については、そもそも「コミュニケーションを遂行する主体」たる意識がない場合と、意識はあるが意思を表出する手段がない場合の二通りがある。また、これらのどちらであるかが分からないことも多い。植物状態や脳死状態については、具体的にどういう状況にあるのかわかっていないことも多いし、また、判定の正確性にも疑問がある。


 意識の有無、およびそれが判別できるかどうかに関わらず、仮にその人に意識がないとする。意識がないなら、苦痛もないはずだから*2、少なくとも本人の利益に即して考えるならば、死なせる必要はない。この場合、死なせるとすれば、それは完全に本人以外の周囲の都合による。だから、代理決定で殺すことはすべきでない、と考える。

 同じ状況について、事前指示の場合を考える。つまり、そのような状況の自分を想像し、それが嫌だと考えるがゆえに、そのような状況では死なせて欲しい、と事前に指示するとする。しかし、この場合も同様に、意識がないなら苦痛もないはずだから、死なせなければならない理由はない。ありえる理由は、たとえば「あんな無様な姿で生きていたくはない」という理由だろうか。とすれば、それは、ある状態に置かれた自己に対する否定的評価によって死ぬということであるから、通常の自殺と変わらない。よって、やはり認められるべきではない、と考える。


 次に、判別可能性に関わらず、その人に意識がある場合を考える。意識があるのに伝えられないなら、「死にたくても死にたいと伝えられない」ということで、死なせたくなるということがあるわけだが、同時に、「生きたくても生きたいと伝えられない」ということでもあり、どちらか分からない、ということをまず強調しておく。

 その上で、人は重度の機能障害に陥った状況について、すぐさま悲惨だとか無残だとか、そうした表現の最上級として「死んだ方がマシだ」とか言ったりするのだが、しかし、実際にそうなったときにどう考えるかは定かではない。と同時に、しばしば「死んだ方がマシだ」と言われるような生を生きている人たちが、その本人たちの意識としてどうであるかを尋ねてみる。すると、重度身体障害者をはじめとして、多くの人が、大変ではあるが死にたいほどではなく、十分な介護と医療があればいろいろ制約はありながらも「生きている方がマシだ」と述べている。とすれば、私たちが「死んだ方がマシだ」と考える状況は、あまり当てになる評価ではない、と考えておかねばならない。

 このように考えてくるならば、意識があるが、その意図を外部に表出できない場合、つまりはLocked-in状況なわけだが、そこでは人は何を思うことになるのか、分からない、ということになる。さしあたり、長期の意識障害(コミュニケーション障害の方が適切か?)からの回復者の話によれば、「死なせる相談をしているのを聞いて絶望した」という話もあり、生きたいと思う人のケースは複数の実例がある。生きたいと考えることが、ありえない話ではないことをまず確認する。その上で、たとえば「私が」どう思うかは分からない。それはそうだと思う。とすれば、一つの妥協点は、「分からない」ということをきちんと情報提供する、ということになる。「分からない」ということに忠実な、中立な情報提供がないならば、そこでなされた死の選択はインフォームド・コンセントとは言えない。


 この情報提供の状況について、現状ははなはだ問題がある。多くの人が、個人的な想像から、ある状況を死んだ方がマシだ、と表象し、それによって「分からない」とは違ったイメージが流布している。それは不当に恐るべき状況として表象されており、積極的に恐怖を煽っていると言ってもいい*3。少なくとも、これをきちんと「分からない」という妥当な線まで引き戻す必要がある。

 とすると、二つくらい対処は考えられる。一つは、こうした混乱した状況においては、Locked-inについての死の自己決定は認めない、という対処。個人的には、今のところはこちらの立場になる。しかし、仮に死の自己決定を認めると考えてみる。その場合には、(1)医療者は「わからない」という認識に忠実に、死をよりよい選択肢として感受させるいかなる言動も取るべきではない、(2)マスメディアも「分からない」という認識に忠実に、扇情的な紹介をしない、最低これくらいのことは付帯事項として付け加えるべきだと思う。


 まとめると、意思の疎通の問題である場合には、(1)事前指示も代理決定も基本的に認めない。あるいは(2)その状況の「分からなさ」を踏まえた中立的な対応を行うことを条件に、事前指示についてのみ限定的に認める、このどちらかだと思う。繰り返すけど、個人的には、少なくとも今は(1)。しかし、まともな医療者なら、(2)までは認めるのではないかと思う。他に付け加えられる条件があれば、もちろん、変わる可能性はあるけれど。

 以上述べた、すべての状況について、本人のQOLを高めるべく、介護・医療を十分に提供することが約束される必要がある。これが提供されていない状況で死が選択される場合には、それは実質的な自己決定とは言えない。それは尊厳死ではなく、尊厳を剥奪されたが故の自死である。また、いずれのケースにおいても、医療資源を節約するために死んでもらう、という選択はありえる。ただし、それは自己決定でもなんでもないのは言うまでもない。

肉体的な苦痛が持続している場合

 この点については、本人の意思によって死ぬという措置を認める余地があるかもしれない。しかし、原則として、痛みがある場合には痛みを取れば良く、呼吸が苦しいならそれを楽にすればよく、といった具体に、具体的な肉体的苦痛に対する緩和ケアをすればよい。死の選択は、基本的には問題にならない。

 よく言われるように、モルヒネなどの麻薬を使って鎮痛する場合、意識が朦朧として具体的な行為ができるわけじゃなし、「死んでいるのと同じだ」といわれるようなこともある。そのくらいならいっそ死なせた方がマシじゃないか、と言われることがある。しかし、これは意識のない生命を生きる価値のない生命であると決め付ける価値判断を含む。意識が朦朧としてなお生きている人は、意識が朦朧としているという状態で生きているのだ。別に、死なせる必要はない。また、鎮痛によって余命を縮めてしまうこともありえる。しかし、そのことまで否定するわけではない。どれほどの苦痛があっても一秒でも長く生きるのがよい、という生命原理主義とは違う。

 その上で、仮に、医療措置によってどうしても鎮めることも緩めることもできない苦痛が持続してあるという場合があるとする。僕はそういう状況が具体的にどういう状況か知らないが、仮にそういう状況があるのだとすれば、その状況に限り、死の選択を認めるしかないこともありえる。これについては「ありえる」と述べるにとどめる。具体的にどういう状況かが分からないからだ。しかし、こうした状況があって仮に認めるとしても、それは疾患名や症状の具体的記述などによって、相当程度限定できるはずである。だから、「これこれこうこうの具体的な状況に限り」という強い限定付きで認める、という話になるはずである。

 似た状況として、医療技術的には鎮痛可能だが、現状の医療制度の中ではその技術の使用が経済的に可能ではないために、苦痛が持続するという場合がある。現状はこれに近いことが実際に現場で起こっていて、そのような患者を前にした医療者および家族が苦悩する、という構図になっている。だから、ここから尊厳死賛成に向かってしまう患者・家族・医療者がいるのは分かる。しかし、このような状況でなされる死の選択は、決して尊厳ある死ではない。尊厳を剥奪されたが故の自死である。

まとめ

 第一に求めるべきは、今まで以上の医療と介護への資源の投入である。「そんなことして政府の財政が持つの?」とか、医療者が変に気を回す必要はない。なぜなら、足りるか足りないか知っている人は誰もいない上に示す必要もないと考えているフシがあり、とにかく「財政が危ない」とだけ言って、それが医療や介護が今まで以上の水準に引き上げられないことの絶対的条件であることを示す気なんてないんだから。説明責任は、官僚と経済学者にこそある。医療者は、まずは患者の命を守ることを第一に、「カネよこせ」とだけ言っていればいいと思う。

 第二に、本当に経済がもたないので死んでもらうしかないのであれば、それを「尊厳死」だなどと美しく飾り立ててはいけない。それは現代の姥捨てである。厳しい現実があるならば、厳しい現実として知らしめるべきである。

 僕自身の感触としては、まず「カネよこせ」とだけ言っていればいいし、十分足りる、少なくとも今よりずっとよい水準を達成できるはず、と述べておく。だから、基本的には死の選択については反対の立場である。とはいえ、一秒でも長く生きるのが尊いのだ、とかいう寝言を言うつもりはない。QOL(生活の質)は重要である。ただ、僕の中ではSOL(生命の尊厳)とQOLは分かちがたく結びついている、ってだけのこと。QOLは「生活の質」であり、「生命の質」ではない。


 また、死の選択を仮に認めるとして、幾つかの条件を付して認める状況を、可能性としては示唆した。こうした議論なら、乗れる、という尊厳死賛成派の人たちもいるだろう。で、そういう人たちがいるとして、言っておきたい。日本尊厳死協会が行っている提案および言論活動は、以上に示された論点をまったく区別せずに論じている。賛成してはいけない。

 先日、日本尊厳死協会は病態別のガイドラインを判断基準を提案した。その病態は「がん、呼吸不全、心不全、腎不全、持続的植物状態、ALS、高齢者(脳血管障害など)、救急医療」などと分かれているが、このうち、死の選択がありえるのは、がんくらいじゃないかと思う。キーになるのは、「持続的で鎮静不可能な苦痛」。少なくとも、持続的植物状態やALSを入れるのはまったくおかしい。ALSも、自発呼吸がなければ治療停止していい、と述べているのだ。そこにある生命をどう扱うかを真剣に考えた結果ではなく、推移する病態の一つの区切りになるところを恣意的につまんでみました、という感じしかしない。その意味で、日本尊厳死協会は、本記事で考えたようなことについては優生思想的な思い込みで「死んだ方がマシ」と決め付けてあれこれ殺す算段をしているとしか思われない。実質的自殺幇助もそれ以外のものも全部ゴチャマゼにしてなんとなく通してしまえ、というあまりにも無責任な態度。ajisunさんがバカのアホのと言うことに、僕は完全に同意する。尊厳死賛成派ではあっても、「日本尊厳死協会のような粗雑な議論には乗れません」と言うべきじゃないかと思う。

*1:どの程度を十分な、とするかは別途議論は必要。しかし、重度障害者や難病者の在宅による自立生活事例は結構あり、そこからどの程度のものが必要かは具体的に議論できるはず。

*2:意識がなくとも、苦痛はある、ということがあるのだろうか。あるのかもしれない。しかし、一体それは、どういう状態のことを指すのか。

*3:これは、問題になった春野ことりさんの記事「生きている脳」もそうであるけれども、たとえば、杉田さんもそう思い、そう話していたことがある、と告白されていた。また、実を言えば僕自身もかつてはそう考えていたわけで、その意味では大差ない。だから、ある特定の誰かを非難することはできない。