モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

匿名の「ウォッチャー」氏へ

※ 【追記】は、↑の記事に分離しました。

 春野ことりさんのブログのコメント欄に次のような書き込みをした人物がいる。落胆した。すぐに出てきて謝罪してほしい。>ウォッチャー氏

あまり事情がわかっておられないようですが、dojin氏やmojimoji氏はともかく、ajisun氏の怒りないし慨嘆は、患者親族、当事者としてのみならず、医療政策・医療倫理の専門研究者としての、医療従事者における、専門家であるにもかかわらず(むしろそれゆえに?)しばしば見られる無知についての慨嘆も混じっていると思われます。
つまり春野先生は、医師ではあるが保健医療福祉政策について、また医療とケアの倫理学について、あまりにも無知である、と、医療政策・医療倫理の専門家によって断罪されているのです。
とりあえずajisun氏の師匠である立岩真也氏の著書『ALS 不動の身体と息する機械』(医学書院)などを読まれれば、彼らの発想がおわかりになるかと思います。
また安楽死問題については、ドイツと日本の医療史を中心に研究してきた医療社会学者の市野川容孝氏が、いくつかの論文(わかりやすいのは、学生向けの教科書『社会学のすすめ』筑摩書房、『社会学になにができるか』八千代出版におさめられたものがよいでしょう)を書いておられます。そこでの安楽死批判のロジックも、やはり彼らに大きな影響を与えていると思います。
医師だけが医療当事者ではないし、医療の専門家というわけでもない、という昨今の状況は、医師の皆さんにはいろいろと了解しがたいところもあるかとは存じますが、とりあえずご理解下さい。

 誰か知りませんが、まったくの邪魔でしかないので、謝罪して黙っててください。>ウォッチャー氏
 ajisunさんはご自身のブログでも「私は何度も母に向かって「呼吸器を外してあげる」と持ちかけました」とも述べているんです。ことりさんの認識は、以前のajisunさんの認識でもあり、単に専門家として断罪しているのではありません。そりゃ苛立ちも含まれているでしょうけれども、あなたの要約ではいくらなんでも粗雑に過ぎます。


 かつて、田中美津は「中絶する権利」を主張するフェミニズムについて次のように言いました。

誤解のないように繰り返そう。社会の悪はどこまでも社会の悪として追求せねばならない。しかし、「こういう社会だから」「胎児は人間ではないから」という理屈をもって堕胎を肯定しようとしても、しきれないものが己れの中にはあり、それを問い詰めることを回避しては、子供の生命を神聖視する考え方にあたしたちは勝てない。それは、倫理やエセヒューマニズムとは関係ない地平における、生命(いのち)の持つ意味に対する問いかけである。……中絶させられる客観的状況の中で、己れの主体をもって中絶を選択する時、あたしは殺人者としての己れを、己れ自身に意識させたい。現実に子は死ぬんだし、それをもって女を殺人者呼ばわりするのなら、敢えて己れを罪人者だと開き直させる方向で、あたしは中絶を選択したい。ああそうだよ、殺人者だよと、切りきざまれる胎児を凝視する中で、それを女にさせる社会に今こそ退路を断って迫りたい(山根純佳『産む産まないは女の権利か』(p.190)より孫引き)

 尊厳死も、基本的には同様の問題だと考えています。僕の場合は次のように述べたいわけです。

誤解のないように繰り返そう。社会の悪はどこまでも社会の悪として追求せねばならない。しかし、「もうああなったら死んだ方がマシだから」「本人もそう望んでいたから」という理屈をもって尊厳死を肯定しようとしても、しきれないものが己れの中にはあり、それを問い詰めることを回避しては、生命を神聖視する考え方に私たちは勝てない。それは、倫理やエセヒューマニズムとは関係ない地平における、生命(いのち)の持つ意味に対する問いかけである。……尊厳死させられる客観的状況の中で、己れの主体をもって尊厳死させること選択する時、家族(あるいは医師)である私は、殺人者としての己れを、己れ自身に意識させたい。現実にその人は死ぬんだし、それをもって家族を殺人者呼ばわりするのなら、敢えて己れを罪人者だと開き直させる方向で、私は患者を尊厳死させたい。ああそうだよ、殺人者だよと、呼吸器を取り外される患者を凝視する中で、それを家族(あるいは医師)に選ばせる社会に今こそ退路を断って迫りたい。

 医療者が尊厳死賛成の言説に流れるのは当たり前なんです。尊厳死反対の言説に「現実も知らんくせに」と反発するのも当たり前なんです。そして、現実を知らん尊厳死反対の言説もまた、一部にはあるんです。巷じゃ、尊厳死反対と言えば未だに「生命の尊厳」とかゆーてる人たちのことらしいですからね。そーゆーのとは違って、僕は家族を殺す人間として尊厳死法制化に反対しているわけです。合わせて別の道──尊厳死させなくても済むような社会、医療と介護に十分に資源配分する社会──を要求しているのです。医療者を説得しているのは、そこに加わって欲しいと思うからです。ここでの尊厳死批判は、自己批判を含むものです。分かったような頓珍漢な要約をしないでください(まぁ、ajisunさんの言いたいことを僕が代弁するのもアレですけどね。しかし、ウォッチャー氏の要約よりはマシでしょう)。


 それともう一つ。
 昨今の日本の医療の置かれた状況を見れば、仮に医師に対して批判があろうとも、そんな問題について立ち止まって考える余裕を与えてないのは紛れもなくこの国の医療政策の結果なのですよ。その医療政策のあり方には、僕も含めた市民全員にも責任があるんですよ。おそらくウォッチャー氏自身も含まれているはずです。尊厳死賛成に傾く思想は、医療現場の圧倒的な資源不足のツケを医療者と家族に押し付けてきたことにも一因があるんですよ。医療資源も介護資源も十分に投入せずに、家族と医療者だけに責任を押し付けてきたから尊厳死容認が唯一現実的な選択肢として浮上してしまうのです。医師が尊厳死法制化に賛成することを僕は批判しますけれども、その責任が医師にあるというのは全然別の話です。尊厳死法制化の問題点だけでなく、別の道(道になってると受け取ってもらえるかは知りませんが)をもきちんと提示しなければ、説得なんて無理でしょう。あの本を読めの、この本を読めの、一体、いつ読めって言うんですか。そんなこと、医師本人に言わせなくても分かりきったことです。

 思想信条と関わりなく、医療者たちはその仕事における重大な責任を引き受けていることを踏まえておかねばならないはずです。私達も責任を負うているところの日本の医療政策は、そうした医療者たちに考える余裕さえ与えないような仕組みになっています。そのことを踏まえておかねばなりません。本当は、ことりさんの記事にも、そのお友達の記事にも、言いたいことが山ほどあります。僕もできた人間ではないですから、そのすべてについて言挙げして指摘したくなります。しかし、それがために相手の生活にあまりにも大きな影響を与えてしまっては元も子もないのです。相手を尊敬しなければならない、と何度も言い聞かせながら、言うべきことを抑制しています。しかし、繁忙の中で合間を縫って物を書いていることりさんたちの方が、よほど言いたいことを我慢しているはずですから、まだ言い過ぎているのではないか、と危惧しています。ウォッチャー氏のおかげで台無しですけどね。


 それでもウォッチャー氏が何か言いたいなら好きにすればいいですが、最低限、誰でもがあなた本人あてに返事ができるようなやり方でコメントすべきでしょう。どうやればウォッチャー氏自身に対して言いたいことを伝えられるのか、まったく手がかりを残さずにコメントするのは最低です。ことりさんに対し誠実な謝罪をすることと、ことりさんのコメント欄以外の場所であなたにメッセージを届けられる場所を指定することを求めます。このエントリのコメント欄でも構いませんが*1

*1:その場合は、はてなIDくらいは自分の責任でとってください。