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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

「勝ち組」が「勝ち組」に向けて語る

 赤木論文は、「負け組⇒勝ち組」のメッセージ。このメッセージに対して応答するとは、二つの応答が必要だと考える。一つは「勝ち組⇒負け組」で、それが「「勝ち組」からの応答──赤木論文を検討する」。いろいろブックマーク・コメントをお寄せいただいてます。ありがとうございました。そこでid:kmizusawaさんも指摘しているように、これは「身も蓋もない話」だ。しかし、「負け組」とは、定義上、「奪われた人」なのだから、「負け組」に何ができるわけでもなく、「勝ち組」であるにせよ私一人に今すぐどうこうできるわけでもなく、あのように答えるしかない。しかし、その身も蓋もなさを確認することは大事な出発点である。というのも、この身も蓋もなさを確認することによって、「勝ち組である私」と「負け組」というフレームワークがそもそも間違っているのだ、ということに気づかざるをえないからだ。そこで、赤木論文への応答としては、「勝ち組⇒勝ち組」のメッセージが書かれねばならない。それは、「私以外の勝ち組への呼びかけ」につながって初めて、応答たりうるのだと思う。


 現に今ちゃんと豊かに暮らせている人間、すなわち「勝ち組」が社会を変える運動に関わるということと、現に今奪われている人、すなわち「負け組」が関わるということとは、意味が違う。そこには超えられない断絶がある。どちらも、未来の可能的な「負け組」のために運動している。しかし、「勝ち組」はその豊かさによって既に報われているのだが、「負け組」は報われておらず、報われることはない。

 もちろん、運動そのものに内在する充実感や開放感はある。しかし、これを言い訳にして「負け組も報われている」と述べることは、問題を隠蔽することになる。蕩尽から得られる満足(効用)と奉仕から得られる満足(効用)は区別されねばならない。──鞭で打たれる奴隷が、主人に反抗する。その反抗することによって自由を感じる、そのとき充填されている満足感ゆえに、奴隷は報われている。と仮に述べるとしても、奴隷が反抗することによって獲得しようとしたもの(たとえば正当な報酬)を消費することによって得られる物質的な(しばしば低級なとされる)満足は回復されなくてもよい、ということではない。むしろ、蕩尽する権利こそが基底的な価値である。

 人を社会運動に巻き込むときには(オルグするときには)、しばしば、こういう側面を積極的に錯覚させることもある。つまり、蕩尽への権利を奪われていることに対して、奉仕に伴う充足感を充当することは答えにはなっていないのだが、しかし、そのへんをゴチャマゼにしながら運動に誘惑するところはある。このことを非難しようとは、とりあえず今は思わないが、構図としては、ある種の詐欺ではある。蕩尽への権利を奪われている人に対して、「社会運動」を持ち出すことは、本当は答えになっていない。id:ymScottさんが「覆らない負け組と勝ち組の断絶」と述べている。まったくその通りである。「負け組」の社会運動とは、徹頭徹尾、与えることである。

 だから、「負け組」は、社会に拒否されたままであることを受け入れることもできる。つまり、「負け組」の側から社会を拒否することもできる。それはたとえば、テロリズムということになろうか。そこへ向かう人のことを僕らは止めるだろうとしても、しかし、そこに向かう人を非難したりはできないのだ。ただ、幸運なことに、テロリズムへの道を進む人よりも、自らを供する道を選ぶ人の方が圧倒的に多い。ただ、そうしなければならないからそうしているのではなく、その人たちは、自ら選んで、そのようにしているのである。あるいは、「そうしなければならない」ということを自ら選んで、そのようにしているのである。

 他方で、既に報われているはずの「勝ち組」の責任を問わねばならない。とりわけ、「負け組」に呼びかけられた「勝ち組」は、「負け組」に応答するだけでなく、周囲の「勝ち組」に訴えねばならない。「負け組」に代わって、訴えねばならない。自分達には力がある。だからそれを使うことを自らの責務として引き受けよう、と。「勝ち組」にこそ立ち上がる力があるのだから、まずはそこが先に立ち上がるように呼びかけるべきだろう。──「勝ち組」には立ち上がるインセンティブがない?それなら「勝ち組」など、戦争でみんな死んでしまえばよい。こう言われても仕方があるまい。戦争が嫌なら、まず己が働け、ということである。そして、「戦争に賛成するべきではない」と叱り付けるのではなく、「戦争に賛成しないでくれ」と乞うべきである。

 ひとまず以上。残された問題について。まず、「赤木氏が本当に弱者か」という指摘があろう。僕はこのような問題設定自体が誤っていると考える。第一に、徹底的に奪われた弱者というのはおり、その人たちに向かって何が言えるか、ということは普遍的な問題としてあるからである。その意味で、赤木氏が実際にどうであるかを詮索する議論は、全部的をはずしている。第二に、弱者でない人間が弱者を代弁しなければ、そのような傲慢な代弁を試みなければ、語ることのできない弱者は本当に闇の中に葬り去られてしまう。語ることのできない他者にいかにして接近するかという問いが立ち上げられ、その問いに対する答えの巧拙を争うのなら理解できる。しかし、この問いを消滅させるようなやり方で批判することは、より一層悪質であると僕は思う。
 関連して、「勝ち組」、「負け組」とは実体的な概念ではなく、操作概念と考えるべきだ。たとえば、赤木さんとてある種の人たちのの関係においては、「強者」、「勝ち組」と位置づけられうる。たとえば、ホントに飢えて死にそうな人にくらべれば、赤木氏は恵まれているとか、そういう言い方はできる。このような理屈にどう対処するかについては、また別のエントリで考える。

※ 以上の内容に関連して、小泉義之「無力な者に(代わって)訴える」。『「負け組」の哲学』所収。

「負け組」の哲学

「負け組」の哲学

ブックマーク・コメントについて

間に合わないから何もしないという意味では無いよね?近い未来に格差を減らすことは可能。今の弱者にとっても、未来に希望があるのと無いのとでは全く違う。赤城氏は戦争にしか唯一の希望は無いのか?と問うている。(id:the_other_sideさん)

 もちろん、何もしないという意味ではない。
「負け組」は定義上、何もできない。一人の「勝ち組」は、一人では大したことはできない。だから、責任を「勝ち組」全体の責務として再定義する。何かをすることは当たり前で、それをどのように言うか、ということを考えている。と言えばいいでしょうか。

絶望的な話だな。しかし、左派には未来の弱者はともかく現在の弱者を救えないとしたら、左派に期待する人はほとんどいないだろうなあ。モジモジさんの理屈だと「留保のないテロリズムの肯定」という答えしか導けない(id:lakehillさん)

 運動は、報いることなく、ひたすら奪っていきます。その意味で、左派に期待する要素なんて一つもありません。運動を通じて奪われることには、システムの中で奪われることとは違う意味があり、そこに価値を見出すことは可能でしょう。しかし、そこに価値を見出すことを要求してはならないと思います。とりわけ、「勝ち組」がそれを口にするときには注意が必要でしょう。社会運動は、「負け組」が左派に期待するから行うものではなく、「勝ち組」が良心の痛みを感じて行うものであるべきだと思います。現実に「負け組」が運動の現場には沢山いるし、「勝ち組」よりよほど真剣ですが、それは彼らが勝手に自らを供しているだけであって、そうすべき理由など本来ないのだということを忘れないようにしたいと思います。

 「留保のないテロリズムの肯定」というのは、いいとこをついてる。僕らが目指すのは、そうではない世界だが、しかし、そうではない世界を目指すためには、今・ここにある世界はそうである世界、テロリズムを留保なく肯定している世界であることを自覚しておく必要がある。──同じことだが、僕の場合は「今ある世界の中では、テロリズムを否定できない」と述べる。肯定と「否定できない」は同じではないか、と思われるかもしれないが、僕はそこに「現状認識としては肯定でありつつ、否定されるべきものであり、否定が可能な世界を目指す」というベクトルをこめる。