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「勝ち組」からの応答──赤木論文を検討する

 正直、これできちんとした応答になっているのか自信はない。ないけれども、素通りもできないので考えたことを書いてみる。赤木智弘id:ClossOver)「「丸山眞男」をひっぱたきたい」について。


 今日、飢えて死ぬ人がいる。今日、凍えて死ぬ人がいる。etc...。多少なりとも手を伸ばし、誰かの役に立つような何かをちょこちょことやってはみても、まだ全然足りない。一人の力はとても小さいから、また他人よりは自分のことの方が大事だから、できることをそれなりにやったとしても、いつでも全然足りない。だから、社会の仕組みそのものを変えようと考える。うまくいくかどうかさえ分からないのだが、しかし、仮にこれがうまくいったとしても、そのうまくいったその日までに死に行く人には間に合わない。明日、何もかもがうまくいくとしても、今日、死に行く人には間に合わない。

 左派であるとは、こうした状況を変えようとする、ということであると思うが、しかし、結局のところ間に合わない人には間に合わない。明日、状況を打開するために働くとして、それがうまくいくとして、今日死に行く人がいる。では、今日死に行く人に「助けてくれ」と言われるならば、何と返すことができるか。つまりは、「そのまま死んでくれ」と述べる他はないのだ。というより、既に、そのように述べているのだ。僕らは。

 間に合わず、死に行く側では何を考えるだろうか。想像するより他はない。仮に、「世界が私を消滅させるなら、いっそ、私と一緒に世界を消滅させよう」と考える人がいるかもしれない。いるとして、この人に対して何が言えるか。「そんなことをすべきではない」とは言えない。死に行く人、助けることができない人との間では、前提にされるべき正義は何もない。法も意味を持たない。そこでは、ただ死に行く人と死なずに済む人が対峙しているだけである。道連れを求めてよいとも悪いとも決まっていない。道連れを求めるなとも決まっていない。ただ、道連れにしないで欲しいと頼むだけである。そして、生き残る僕らにとっては幸運なことに、ほとんどの人が、道連れを求めるよりは、黙って逝く方を選ぶのである。

 黙って逝くのが正しいとか正しくないとか、そのことを評価する資格は、生き残る僕にはない。ただ、感謝するだけである。そして、僕らにできることは、このような悲劇的な世界を作りかえる仕事に力を注ぐことだけである。


 赤木氏は論座1月号の論文を、次のように締めくくっている。

 しかし、それでも、と思う。
 それでもやはり見ず知らずの他人であっても、我々を見下す連中であっても、彼らが戦争に苦しむさまを見たくはない。だからこうして訴えている。私を戦争に向かわせないでほしいと。
 しかし、それでも社会が平和の名の下に、私に対して弱者であることを強制しつづけ、私のささやかな幸せへの願望を嘲笑いつづけるのだとしたら、そのとき私は、「国民全員が苦しみ続ける平等」を望み、それを選択することに躊躇しないだろう。(p.59)

 論座4月号で赤木さんに応答した六人は、誰もこの部分には応答しなかった。おそらく、六人ともが、赤木さんを上で書いたところの「死に行く人」とみなしていないからだろう。確かに赤木さんは文字通りに死に瀕した人ではないのだけども、しかし、彼が放置されたまま過ぎ去った時間はもう戻らない。つまり、彼の絶望が本物であるならば、彼の20代はもう死んだのだと言わねばならない。そう読むならば、赤木さんへの応答は、「死に行く人」に向ける応答と同じものではなければならないと思う。

 もう一つ、彼に向かって「連帯しよう(共に運動を担おう)」ということもまた、ズレた答えだ。社会運動が目指した社会に、その当の運動を担った人たちが住める可能性はほとんどない。社会運動は、少なくとも狭い意味での自己利益のためにはできない。社会運動は、将来の人間たちのための運動である。そのことを、自らの喜びとできる人だけが、運動に意味を認めることができる。赤木氏に社会運動への自己投企を求めるのは、自己犠牲を求めることに他ならない。未来の世代の誰かのために、今の自分を供せよ、ということなのだ。よって、運動は赤木さんが求める答えには決してならない。十全に食えて、住めているものがやる運動と、そうではない人がやる運動は、同じ場所で一緒にやっているのだとしても、違うものなのだ。

 では、僕ならどう答えるだろうか。黙って死んでくれ、と頼む以外のことは言えないだろう。彼がそれは飲めない、と考え、僕のもとへ奪いにやってくるとしても、それを不正だと言える根拠は、僕の生きているこの世界にはない。僕らは、否応なしに、奪い奪われる関係の中に生きさせられている。奪いに来る者に対しては、それが正しいとか正しくないとかを言うことなく、ただ、全力で迎え撃つ。それだけだ。彼が、奪いに来るのではなく、ただ黙って「死に行く」のであれば、僕はそれを感謝し、ただ、弔う。

 「勝ち組」の席にいて、赤木さんの言葉を受け止めるとき、述べられることはこの程度のことだ。僕は僕が引き受けると決めた範囲のことでだけ、戦う。それをどう評価し、どう迎えるのかは、赤木さんが委ねるしかない。ただ、その上で、僕は赤木さんに対して呼びかけよう。あなた自身がどれほどみじめに感じる生であっても、可能な限り生き延びて欲しい。そして、あなたがあなたの望む世界に住む可能性はなくとも、その世界を作るための運動に参加してほしい。あなたが告発したように、僕たちはあなたから尊厳を奪ったその上で、暮らしている。その上でさらに言う。残りのものをも差し出すように生きて欲しい。運動は赤木さんに何ももたらさないが、それでも、そこに身を投ずるような生き方をして欲しい。