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赤木さんへの一年遅れの応答──論座論文の検討へ向けて

 一年前の「問題は「金」という言葉が有するイメージ@深夜のシマネコ読書録」という記事*1。この記事に対してごくごく短い記事をTBした。さらにこれについては「団塊世代ハ神聖ニシテ犯スヘカラス@深夜のシマネコ読書録」という記事の中で、次のように応答された。

結局奪うのではないか、と言うかもしれない。どこが違うのか。少しでも後ろめたさを感じなくていい、そういう影が少なくて済むような金を与えてくれるのが、左翼。金なら同じだと言うのが保守。金以外のものとの両立を目指すのが左翼。金以外のものを差し出せというのが保守。共に取り戻そうと言うのが左翼。奪ったものを奪った相手の目の前にちらつかせることを恥とも思わないのが保守。(mojimojiさん)

なんてことは、実際に若者に「そういう影が少なくて済むような金」とやらを与えてから言うべきだ。

左翼は若者から奪うだけで、何も与えていない。
与えているというなら、理屈ではなく右翼のように実例を示せ。

 最近話題になっている論座1月号掲載「「丸山眞夫」をひっぱたきたい」は、このエントリの延長線上にあると思う。さしあたり今回は、この1年前のやりとりに応答しようと思う。後日、それをベースに論座の論文について考えてみたい*2

実例

 まずは、「実例を示せ」と書かれているので、実例を示す。

 70年代の青い芝の会に代表される障害者解放運動。車イスでバスに乗ることさえ拒否する社会のありようを問うた。徹底的に闘争的なスタイルによって一定以上社会を変え、行政を変え、重度障害者が地域社会の中で暮らすことに向けた地歩を築いた。

 重度障害者の彼らは、介助なしでは食事も入浴も排泄もできないくらいの人が多かった。当然、人手なしにほっておけば死ぬ。そこで彼らは街に出て、「介護せぇ」「せんかったらワシ死ぬ」と呼びかけ、彼らのために無償で介護するボランティアをオルグした。無茶苦茶である。しかし、この無茶苦茶がなければ、彼らは家族か施設かのどちらかで、幽閉同様の生活に甘んじるしかない状況があった。生きるに値する(と彼ら自身が考える)生活を獲得するための「無茶苦茶」であった。

 彼らの介護に巻き込まれることは大変な労苦を背負い込むことでもある。それは、重度障害を負うている本人よりも重い労苦だと言えるとは思わないが、それにしたっていきなりオルグされても普通は引き受けられない程度には重い労苦だ。ほとんどの人が応じなかっただろう。しかし、彼らの存在のありようが示す事実は圧倒的だ。それによって少数ながら巻き込まれていった人たちがいて、彼らは腹をくくって重度障害者たちと行動を共にした。

 圧倒的に不足している介護を少数のボランティアたちが支える。これを生活の基盤とし、運動の基盤とし、オルグオルグを重ねて自転車操業での自立生活が立ち上げられる。介護者は全員無給である。ボランティアでは飯は食えない。介護を担いながら、住居や食事の面ではむしろ重度障害者向けの現金給付に寄生するというような、いびつながらもとにかく持続可能な生活を無理やりこなしていく。運動の初期は、そういう困難さと、聴くところによれば訳の分からない開放感のようなものがあったらしい。そして、そこから市民に訴え、行政を動かし、次第に地域生活と介助を支える制度が作られていく。生活保護制度を利用して現金を獲得するというノウハウが定着した。そこに介護に必要な資金を賄う「介護料加算」が追加される。さらに、個々の自治体の予算から介護負担のための予算を組ませる。次第に、まったく不足しているとは言いながら、彼らの介助をする人間たちにお金を支払うことが可能になってきた。

 障害者自立支援法を境にバックラッシュに遭っている最中とはいえ、また現在でもまったく不十分な水準とはいえ、曲がりなりにも障害者の介助で報酬を得られるようになり、障害者介助を生業とする事業所を立ち上げることも可能になってきた。依然、不十分な水準である。しかし、その水準を引き上げるための運動は今も行われているし、それは絶対的に正しい。そして、今、介助でメシを食っている若者(および元若者)が多数いる。

 もう一つ例を出そう。こちらはそれほど詳しくないので簡単に。近年、女性に対する様々な構造的差別が自覚化され、問題化されるようになってきた。これも70年代のウーマン・リブ以来の女性運動の成果である。その副産物として、性暴力被害者のケアをすること、セクシャル・ハラスメント防止のための知見を提供すること等々をすることで、金を稼ぐことができる状況が出てきた。これもまた十分ではない。しかし、当初はまったくの無償で担われていたこれらの活動が、現在では量的には不十分ながら報酬を得つつ行われる部分も増えてきた。

 山野車輪がいくら稼いでいるのか知らないが、左派の運動はそれ以上に広範に、まともな仕事をすることで報酬が得られる仕組みを作ってきた。実例など、いくらでもある。要するに、左翼と言うときに、一体誰の事を指していっているのかが完全に食い違っているのだ。大企業の労働組合(それもここ最近に限定してのそれ)を批判して、左派全体への批判になんかそもそもなるものかどうか。障害者運動やリブは左翼ではない、と言えば言えるが、それなら僕自身も左翼ではないし、その意味での左翼がどれほど厳しい批判を受けていようと「あーそうだよね。賛成賛成」という話になる。元々、しばしばイメージされる典型的左翼など、僕は知りもしないし興味もない。親近感も感じない。

労働組合について

 赤木さんの文章では、しばしば大企業労組を中心に、自分達の既得権にしがみついて格差を温存している、と述べている。僕自身、既得権保守的な労働組合が大嫌いなので、この点では赤木さんに同意する。しかし、これは「労働組合批判」であって、そもそも「左派批判」になっているのかどうか。

 うちの職場の場合、右派だろうと左派だろうと、労働組合には加入する。だいたい自分のベア要求に固執していたり、堂々と非正規雇用従業員の利害など関係ないと言い切ったり、地域・全国の広域組合活動を否定したり、他大学での不当労働行為などに無関心だったりするのは、保守政党支持者だったり「国家の品格」大好きおじさんだったり自称愛国者だったり中国や韓国になめられるなとか「南京事件従軍慰安婦って嘘なんですよね」とか言ったり北朝鮮には単独でも経済制裁すべしとか言ったりする人ばかりだ。どういうわけか、事実、そうである。どこからどう見ても右派そのものです。その他の人は左派というよりは、生活保守主義+微妙リベラルのブレンドで、「左派ですか?」と聞かれたら「右でも左でもありません」と答えそうな人たちばかりである。では、「私は左派です」と自称する人はどうなのか。そもそもそういう人が数としていないのだけれども、「要求項目に非常勤講師の単価切り上げを入れましょう」とか真面目に提案するのは自称左派ですね。で、そういう話をしていると、「正規雇用者の利害を第一に考えない組合など、加入していても意味がない」、「組合費の費用対効果が悪い」と怒って脱退していくのは、皆、右派おじさんです。とりあえず。まぁ、自称左派でもくだらない権力志向の人はいますけどね。ゼロとは言いませんが。

 まとめると、そもそも労組に左派はほとんどいません。既得権保守に積極的な人たちや、少なくとも非正規雇用の人たちの雇用条件に無関心な人たちは皆右か自称・中道。左派を美化しすぎ、と思うかもしれませんが、僕の周りではそれが事実なので仕方がない。

 大企業労組の場合、実質的には僕の言う右派や自称・中道と同じ行動・思考をしていながら、左派を自称してたりするのかもしれない。よくはしらないが。仮に、その人たちが左派を自称しているとして、それによるまぎらわしさがあるとしても、そうした人だけを取り上げて左派の代表のごとく位置づけて批判して、なんか意味あるのかね。


 「左派」とか、「労働組合」とか、さらには「左派=労働組合」というよく分からない前提とか、中身がどうなっているかをきちんと特定しないで記号に向けて一般的な批判をしても、ツボをはずすのは当然だろうという気がする。
 その上で、論座論文に応答するには、あと幾つか検討するべきことがある。それは後日。

*1:この記事が書かれたきっかけになったのが次の記事。>嫌韓厨が顔まっかにして泣きながら怒る一言って?@CLick for Anti War 最新メモ

*2:赤木氏のサイトは現在はてなではないところで更新されており、そちらにも同じ記事がある。>問題は「金」という言葉が有するイメージ団塊世代ハ神聖ニシテ犯スヘカラス(以上、@深夜のシマネコBlog。)