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尊厳死言説を懐疑する(3)──尊厳死を選ぶ人は本当に選べているのか

 前回は「経済的理由によって死に追い込まれる人がいる」という話をした。これは比較的分かりやすい。しかし、人工呼吸器や人工透析を導入するのを嫌がる理由は、「医療や介護に金がかかるから(=家族の負担になるから)」というだけではない。実際、そうした医療を使いながらの生活を、「私自身が嫌なのだ」と思うような、そういうところからの拒否感が、また別にある。こうした理由なら尊厳死オッケイと朗らかに言いきれるのか。とてもそうは言えない。そのことを述べる。


 「あんな風になるくらいなら、いっそ死んだ方がマシだ」ということが、実際に病や障害を得ている人から言われる場合、それは聞いてやってもいいんじゃないか、と思ってしまう(滑り落ちてしまう)ような場面がある。

 まず第一に確認しておくべきことは、どれほど困難な状況に生きていて、「もう死んだ方がマシだ」と心底から思うような人であったとしても、技術的に命を継続させることが可能であるような状況であるならば、その人は事実として死に瀕しているわけではない。それがどれほど健康体を自認する人と違っているように見えても、大抵の場合は、その人の意識は生の側にあり、そこで死について想像しているに過ぎない。だから、本当にいよいよ危ないとなったときには、反射的に「死にたくない」と思ってしまうというようなことが、かなり多くある。ピンピンしてたときには「そうなったら死んだ方がマシだな」なんて思ったけれども、病気になってだいぶ経ってからでもそう思ったけれども、でも、本当に今死ぬかも、というところに直面してみたら、やっぱりまだ死にたくないと思った、なんて述懐をなさる人は実際いる。

 本当に死に瀕したところで「やっぱり生きたい」と思うとしても、当然のことながら、そんな切迫したところで患者の意思確認をすることはできないことは多い。一瞬の違いが命を分けるような場面であったり、そもそもコミュニケーション不能の状態に陥っていることも多いわけだ。有無を言わさず生かす、という姿勢で対しない限り命を救えないという場面はある。しかし、そういうところでも、「こうこういう状態になったら、それ以上の延命措置はやめてください」などと先に約束しているならば、粛々と治療停止されてしまうことになる。本当は生きたいと思ったその人は、そんな状況に直面して考えたわけではない過去の自分の決定によって殺されてしまう。ここでリビングウィルは、未来の自分殺しとしての様相を帯びる。決して自己決定と言って終わりにできない問題が残っている。

 この問題点からすれば、最低でも、「リビングウィルはいつでも撤回可能である」ということが明文で保障されねばならない。にもかかわらず、日本尊厳死協会の主張するリビングウィルは文書化されて保存され、一度サインしてしまうと撤回するのに煩雑な手続きが必要になってくる。尊厳死法制化自体時期尚早であるが(それは医療経済的問題だけでも言えることだが)、仮に法制化するとしても、本当に人の自己決定を守るための法にするならば、こうした細かい点についての議論がおろそかにされてはならない。


 第二に、その死の瀬戸際ではそのまま死なせて欲しいと思い、そこで延命したことで大変失望する人も実際にいるのだが、そうした人の中にも、しばらく生きている中で再び生きる力を取り戻し、「あのとき死なずにいて良かった」と思う人も決して少なくない、という事実である。

 落ち込む理由には「家族の負担になるから」というものも含まれるが、それだけではなく、実際に人工呼吸器をつけた生活は、つけない生活よりもずっと不自由な生活としてイメージされており、あるいは単純に「機械につながれた自分を嫌悪する」という部分もあり、それゆえに「そんな状況で生きててもしょうがない」と消沈しているところがあって、それゆえに生きながらえたことをすぐには肯定できない人はいる。しかし、そうした人たちの多くが、実際に呼吸器をつけた生活の中で変化する。それは次第に体になじんでいく。よく言われる表現を借りれば、呼吸器は「メガネみたいなものだ」ということになる。そして、そうした生活の中でどの程度のことができるか、あるいはできないかがわかってくると、確かに不自由は多いにせよ、できることはそれなりにある。また、生き続けるならば、子どもの成長に立ち会うこともできる。ただ生き続けているというだけで、生きていることの意味があるようなことが出てくる。すると、まぁ死ぬよりはいいかな、と思える程度のものだと実感されてくるようなのだ。

 実際にそうなってからの生活を知らないから、それを怖れる、ということがある。そうなる前に死んだ方がいい、と思ってしまうところがある。しかし、実際に生き延びた人たちの話を聞くと、生き延びてしまうと変わることも多いのだ。だとすれば、あらかじめ死を約束しておくことは著しく不合理なことだ。実際、私たちは生き延びてそこでどんな生活ができるのか知らないがゆえに怖れているところがあるのだ。そして、実際生き延びた人の話を聞くならば、なるほど、楽ではないがこの程度のものではあるのか、ということが分かる。だったら生きてみてもいいんじゃないか。そういう気持ちにもなりえるわけだ。こういうことをちゃんと分かった上で、それでもリビングウィルにサインしようってんなら、仕方ないかもしれない。しかし、今提案されている尊厳死法制化は、そうしたことを分かっている人たちによって議論されているわけではない。


 医療現場にルールが必要だ、という要請は分からないではない。しかし、医療・介護の保障がまず先だし、仮に尊厳死を法制化するとしても、その撤回の簡便化、生き延びることの意味を最大限に肯定的に知らせること(真の意味でのインフォームド・コンセント)、こうしたことが最低限必要である。しかし、日本尊厳死協会を含め尊厳死法制化の賛成派がやることは、「自分で決める死、すばらしい!」の一点のみである。これでは詐欺と何も変わらない。ムードとイメージだけで突き進んでいるのだ。その危険性が、もっと広く知られるべきである。