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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

尊厳死言説を懐疑する(2)──医療経済的観点の欠如

 「死にたいと思う人が死を選ぶ、それのどこが悪いのか」。尊厳死に賛成する人たちの多くが口にすることは、だいたいこんなところだ。しかし、これほど簡単明瞭な話だとも思えないので、賛成の人たちにいつもいろんな質問をするのだが、そうやって聞いて回って感じたことは、賛成派はむしろ考えるべき論点を(知ってか知らずか)*1スキップしているということだ。先日のシンポジウムでも、「なるほど、それなら納得できるね」なんて話にはならなかった。この人たち(=尊厳死協会の人たち)の言うことは(やっぱり)危うく、とてもじゃないが乗れない。


 「死にたいと思う人が死を選ぶ」、この物語に付随するのは次のような実感だ。──「あんな風になるくらいなら、いっそ死んだ方がマシだ」。こういうことが、割と簡単に口にされてしまうような世界に僕らは生きている。「あんな風」には、いろんな状況が代入されるだろう。たとえば、人工透析を導入するかどうか、人工呼吸器を導入するかどうか、チューブを通しての人工栄養を導入するかどうか、生活に他人の介助を導入するかどうか、多くはその人の身体単独では維持できないところの生命・生活を、外部的な何かの導入を通じて延長するという光景が先鋭化するとき*2、そう言われたりする。それを「嬉しくはないな」と思う気持ちの表現として、「あんな風になるくらいなら、いっそ死んだ方がマシだ」などといわれる。これは人が「死を選ぶのもアリかな」という方向に誘導されてしまう一つの典型的な場面である。

 もう少しチマチマと、どこがおかしいのか考えよう。仮に「あんな風にはなりたくないな」は同意してみるとする。この言い草はとても偉そうでイヤな感じがするが、積極的にそうなりたいという人もそうそういないように思うので、さしあたりこう考えておこう。しかし、「あんな風にはなりたくない」として、そこから「死んだ方がマシ」までは随分と距離がある。「そこを考えずに尊厳死法制化に賛成したりするのは無責任に過ぎる」と思えるくらいには大きな飛躍がある。


 「あんな風になりたくない」理由は様々あるのだが、一つの話は、たとえばこうである。「(医療や介護に)金や人手がかかるから」、その負担が家族にいってしまうから、「あんな風になりたくない」のであって、そこから「いっそ死んだ方がマシだ」と述べられる。これはありえる理由のすべてではない。しかし、大きな一つではあり、これだけが理由だというような人も実際にいる。とすれば、少なくともこの理由に関連する話としては、「金がかからないならば」、あるいは同じことだが、「かかる金が別にきちんと用意されているならば」、「あんな風になっても死にたくない」ということだ。

 分かりやすく言えばこうなる。ある人が病気になったり事故にあったりして多大な医療・介護負担が生じたときに、家族が自分の人生を捨てて医療や介護にかかる費用を稼ぎ出す+自らが直接介護を担うか、さもなければ本人が死ぬ。ここで選ばれているのは「(本人が)生きるか、死ぬか」ではない。「本人が生きるか、家族が生きるか」が選ばれているのである。・・・これはいわゆる「救命ボート」状況であるのだが、しかし、この「救命ボート」は医療経済的怠慢によって捏造された「救命ボート」である。医療費と介護費が社会によって負担されれば、「本人も家族も生きる」ことは可能であるのだから。

 よって、尊厳死の問題を考えるときに、医療と介護の負担を、社会がきちんと負う仕組みを作ることが合わせて議論されねばならない。生存に対して社会がきちんと責任を負うという仕組みがあるところでだけ、本当に純粋な問いとしての「(本人が)生きるか、死ぬか」を問うことができる。そうした状況がない以上、尊厳死法制化は、家族を人質にして病者や障害者を死に追いやる道を開くことでしかない。つまり、「死にたくない人を死に追いやること」にしかならない。


 実は、この話を日本尊厳死協会副理事長・荒川迪生氏は、知らないはずがないのだ。氏が報告した昨年の日本生命倫理学会でも、「医療経済の話を抜きにして尊厳死の議論はできないことは既に周知のはずだ」(大意)という極めて厳しい調子の批判が投げかけられていた。質疑の時間の関係もあったとはいえ、まともな応答はなかった。また、今回の大宮のシンポジウムでも、僕は「医療や介護に対する公的支出の増額を、日本尊厳死協会として要求すると明言するべきではないか」と荒川氏に質問してみた。荒川氏は「それは不可能」と答えた。尊厳死協会の中では、尊厳死法制化以外のことを議論しない、というのだ*3。人の生死を左右する法案を提起する団体にしては、あまりにいい加減に過ぎる。


弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術

弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術

 この話については、この本の主に前半あたりで丁寧に論じられている。

*1:分かっててやってるにしては邪悪すぎる。分からないでやってるにしてはアホすぎる。そんな感じ。

*2:まぁ、誰かの作った野菜を食べて生きているからには、誰のどんな生も「外部的な何かの導入を通じて」しか人は生きてはいられないのだが、しかし、その程度の問題というのはあるといえばある。一応の分かれ目になるのは、具体的な財が手元にあれば、それを使いさえすれば具体的な他者の身体がその場になくても生きられるかどうか、という点にあるだろうか。

*3:話はこれだけに止まらない。仮に医療経済的な問題が解決されるとしても、それだけではまだ足りない。このことを(3)で述べる。