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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

格差社会ノート(3)──それでも解雇規制は必要だ

 昨日、「セーフティネットがきちんと完備していれば、解雇規制や最低賃金規制は相当緩やかでもよい」と書いた。ベーシック・インカムなんかがあれば最低賃金規制は廃止でいいと思う。ただ、解雇規制はそれでも多少必要だ、とは思う。その辺を考えたい。


 セーフティネットがあっても解雇規制が必要だと思われる理由の第一は、労働者が職場に対して負っている固定費用だ。たとえば、代表的なものとしては、その職場に固有の人的資本がある。つまりは、その職場に固有の習慣に通じているとか、人間関係が既に築かれているとか、そのような生産性に貢献する人的資本が蓄積されているので、それを保護する必要がある、という話。このようなストーリーで解雇規制を擁護する論文の一つが中馬宏之(1998)「解雇権濫用法理の経済分析」*1だ。
 これに対して、福井秀夫が『脱格差社会と雇用法制』所収の論文で批判している。

 しかし第一に、転職すれば教育投資の効果が発揮できなくなるような、当該企業に固有の有益性しか発揮しない投資が現実に普遍的であるとはいえず、その仮定には無理がある。・・・
 第二に、企業が、人的資本投資によって能力や生産性が上昇した労働者の生産性を故意に低めに評価するという前提が異常である。企業にとって、そのような貴重な人材を何ゆえに冷遇して結果的に企業から追い出したり、または悪い処遇に貶める実益があるだろうか。・・・
 第三に、・・・機会主義的な行動をとる企業が仮に存在するとしても、そのような行動に対処するための正当な対策は、雇用契約がそのような意味で不完備にならないように措置することである。・・・
 第四に、同論文は、強行規定により解雇が規制されて雇用を保障された時、労働者の人的資本投資蓄積意欲が減退したり、勤労のインセンティブが減退する可能性が強いという重大な側面を無視している。・・・
 第五に、解雇規制が経済効率を高める場合が稀にあるとしても、そのような場合が存在するからといって、社会に存在するすべての雇用契約に一律に強行法規として解雇規制を及ぼすことの正当化根拠が存在するとは想定しがたい。・・・(pp.49-50)*2

 中馬論文への批判としては、これで済んでいるのかもしれない。が、僕としてはこれでは納得できない。僕なりの考察を追加してみる。

労働者の固定費用

 人がある職場で働き続けるとき、そこで蓄積される人的資本は必ずしも生産に寄与するようなものばかりではない。たとえば、その職場に慣れることは、その職場でより少ないストレスで働くことを可能にし、その意味で労働者が受け取るものを大きくする。つまり、「受け取る賃金−労働負荷」が労働者の受け取るものであるが、労働負荷を小さくするような人的資本もまた、社会厚生を増大させる。これは企業の生産性には寄与しないが、(福井が物差しにしているはずの観点からすれば)社会の効率性には貢献する。こうした人的資本は生産性に寄与しないから、使用者がこれに配慮するインセンティブは存在しない。よって、使用者はこの厚生が失われることを計算にいれずに解雇を強行する可能性がある。とすれば、使用者がこの厚生に配慮するように、解雇規制を行っておく方がより効率的である可能性がある。

# ついでに言っておくと、解雇規制は、企業にとっての合理性ではなく、社会にとっての合理性において正当化されねばならない。だから、労働者の厚生を計算に入れて政策を評価しなければならないということは、解雇規制緩和論者の諸論文でも当然に前提されている。

 さらに、人的資本というよりも固定費用と言うべきものがある。第一に、解雇された場合の職探しコスト(ジョブ・サーチ・コスト)がある。仕事を探す間のコストだけでなく、新しい使用者や職場の仲間に対して自身の労働能力について知ってもらうための時間など、様々なコストがここに入ってくる。そして第二に、その職場で働くことを前提に築いた生活に変更を迫られることのコストがある。ある職場で働くことを前提に最適な住居を選んだとすると、解雇されて新しい職場に移った場合には最適な住居でなくなるかもしれない。また、人は一人で暮らしているのではなく、誰かと共に暮らしてそれぞれが仕事を持っている場合など、容易に住居を変更できないかもしれない。などなど、住居にまつわるコストはほんの一例である。一般に、仕事を変わる場合には、それに合わせて生活も変えねばならない。そのコストがある。そして、職探しコストも、生活変更コストも、使用者は配慮するインセンティブを持たない。よって、解雇規制をする方が、社会厚生もより大きくなる可能性がある。こうした費用は広く一般的に存在し、決して小さくないように思われる。このように考えるとすれば、福井の指摘する第一の根拠は棄却される。

ハラスメント市場

 そして、より一層深刻な問題がある。解雇規制の緩和は、労働者に対する嫌がらせや差別を助長するかもしれない。・・・そんなわけがあるか、と言うかもしれない。実際、福井も「生産性の高い労働者を好んで解雇する使用者はいない」(p.49)と決め付けているわけだが、しかし、企業の中で差別や嫌がらせが行われうること、それが容認されることは、次のような意味で企業にとっても合理的でありうる。

 ある労働者に対して、使用者が差別や嫌がらせを行い、その労働者が退職したとする。代わりに得られる労働者はより低い生産性しか持たず、この二人の労働者の生産性格差の分だけ企業は利益を失う。・・・しかし、嫌がらせを行う使用者や上司の報酬を、この生産性格差の分だけ削減することができるならば、企業としては帳尻が合う。つまり、市場が要請する金を支払いさえすれば差別や嫌がらせをすることが可能になるのである。ハラスメント市場、といっていい。より生産性が低い労働者ほど、あるいは、代替的な労働者が見つけやすい労働者ほど、嫌がらせや差別に晒されるだろう。

 実際、ハラスメントを訴えた社員を解雇し、訴えられた上司や使用者が温存されるという解決は、職場におけるハラスメントが社会的に問題化される以前はよくある話として語られたものである。(ハラスメントのもたらすコスト込みで)より生産性の高い社員が保護され、そうでない側は保護されない。基本的には、企業にとっては純然たる生産性の問題でしかないからだ。そうした行為が曲がりなりにも問題化されるようになったのは、そうした行為が法的に規制されるようになってきたから、そうした行為が意味内容として問題化されるようになってきたからだ。

 それでもハラスメントはハラスメントとして訴えればよい、と言うかもしれない。しかし、そうは言い切れない。ハラスメント事件と解雇事件は、同じ事件の表裏として発生することも多い。解雇事件をきちんと問題化することができなければ、その種のハラスメント事件を問題化することは一層困難になる。さらに、先に述べた固定費用の存在によって、ハラスメント市場における労働者はより弱い位置に置かれる。ハラスメントの不快感が固定費用を上回るまでは、ハラスメントに耐える、という選択を行うことになるからだ。よって、この固定費用に対して企業が責任を持つような仕組みが必要であり、それはすなわち解雇規制を行う、ということである。よって、第二の理由は棄却される。・・・こうした構図はあらゆる雇用契約において発生しうる普遍的な問題であるから雇用契約すべてを対象に規制する理由になるし(第五の根拠、棄却)、個別契約の中で具体的に権利を記述することは取引費用を大きく増大させる(第三の根拠、棄却)。


 残るのは第四の根拠だけである。よって、今まで述べた諸コスト(労働者が負担する固定費用の問題、市場が需要しうる差別・嫌がらせを認めることの問題)と比較して、この第四の根拠の方が重大であるならば、解雇規制は行うべきでない、ということになるだろう。しかし、この第四の根拠がそれほど重大だとは言えまい。金を払えば差別や嫌がらせをしてよいとは考えないならば、少なくとも何らかの解雇規制が必要だとする見解に同意することになる。

脱格差社会と雇用法制―法と経済学で考える

脱格差社会と雇用法制―法と経済学で考える

*1:三輪芳朗他編『会社法の経済学』、東京大学出版会。もちろん、このような大雑把な要約は正確ではない。ある程度ブログ向けに端折った要約だ。

*2:もう少し長めの引用はこちら