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野宿者問題を理解すること

 このところ野宿者関連のエントリばかり書いている。それらの記事を読んで、なるほどこういう理屈か、それならば仕方ないね、とか思う人が一人でもいるなら嬉しいことだと思う。野宿者にあからさまな敵意を持っていた人が考えなおしてくれるのかもしれず、あるいは野宿者に同情しつつもどう考えたらよいのか考えあぐねていた人がある種の納得に至るのかもしれず、そういうことがあれば、それはそれで嬉しいことだ。

 ただ、話はそこで終わってない。誰かが書いたり話したりしたことを通じて誤解が解かれたり理解が得られたりするというとき、それは裏返せば、その書かれたり話されたりするまでは、誤解が解かれることも理解が得られることもなかった、ということである。私たちが本当に何かを分かったとするならば、その分かった地点から分かるまでの道のりを振り返って思うことがあるはずだ。

 生田武志『<野宿者襲撃>論』では生田氏の授業を受けた小中高生の感想文も多数収録されている。その中の一つに、次のような一節がある。

 今、こうして感想文を書くために、授業に参加する前の自分を思いだしてみると、少し怖いような不思議な気持ちになります。仕事のない人たちがどうしようもなくなった時、野宿をするのは考えてみればあたりまえのことなのに、どうして冷めた視線を送ってしまうのか。考えれば、「ホームレス」という言葉で野宿者をひとくくりにして、個人として、それ以前に人間性とか人格とか、そんなものに、思いを寄せることはありませんでした。(p.234)

 私たちは理解するまでは、理解していない。当たり前のことだ。しかし、痛みを感じることなしに、そのことを振り返ることはできない。そこに、他者を傷つけつつ、そのことにまったく無自覚であった自分を見出すからだ。同時に、これから先、同じことをしないために何を気をつければいいのか、見当がつかず、途方に暮れる。無自覚であるならば、避けようがないからだ。抑圧者になることが不可避であるような構造の中に自分がいることに気づかされる。とすれば、自分は同じことをこれからも繰り返すだろう。そう予想せざるを得ない。そこに「こわい気持ち」を、感じざるをえない。

 こういうどうしようもなさを、私たちは本能的に否認したくなるのではないか。そして、野宿者に対する攻撃的な態度の少なくとも一部は、この否認に起因するものではないか。これは憶測に過ぎないが、しかし、少なくとも僕自身は身に覚えがある。野宿者に対する偏見の多くは、保持し続けるにはあまりにも非合理的である。しかし、それが否認願望ゆえに必要とされた信念であるから保持されるのだとすれば、辻褄は合う。

 野宿者問題を理解するとは、野宿者問題に関する事実を知ること以上のことであるように思う。その事実から自分を遠ざけるものとしての否認、否認以前の無自覚、その構造を知ることではないか。この構造を知ることを通じて、この構造から抜け出る可能性を開くことではないか。そこまで到達しなければ、まだ何も分かってはいない、と言わねばならないのではないか。

 それでもまだ足りないような気はする。が、とりあえず、考えたことをまとめて、このエントリは一旦、閉じておく。

「野宿者襲撃」論

「野宿者襲撃」論