読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

セカンド・ハーフに向けて──教基法「改正」を受けて

 まずは運動の最前線で頑張っていらした方々、id:annntonioさんをはじめ、多くの尊敬すべき人たちが街頭に、国会前に集結し、その存在を示してくれました。こちらで出来ることをやりながらも、やはり国会前にこそ人が沢山集まってくれていることに、その存在を無視できないような形できちんと示してくれていることに、大変勇気付けられながらここまできました。残念ながら「改正」案は可決されてしまいましたが、決して情勢を楽観するつもりはないのですが、しかし、実りの多い運動でもあったと思います。簡単ながら、今後のためにいろいろ整理しておきたいと思います。


 こういうことを書くと怒られてしまうかもしれませんが、正直、春の国会で「改正」されてしまうだろう、と踏んでいました。活動量がゼロだったわけではありませんが、あの頃はどこか空しい気持ちを抱えつつ、惰性でやっていた気がします*1。諦めない仲間や先輩に励まされ、徐々に気持ちが燃え上がり、考えも整理されていったように思います。世間でも徐々に危機感が盛り上がり始めながらも「もう間に合わないかな」とも思ったとき、しかし、あの小泉のプレスリー狂いのおかげで、国会会期延長は消え、教育基本法はとりあえず九死に一生を得ました。本当に世の中分からないものです。結果として「改正」されたとはいえ、この拾い物の半年間のおかげで、ようやく教育基本法改正の問題の重要性が認識できた。そういう人は決して少なくないはずです。これは確かに、貴重な成果でした。
 幾つか確認しておくべきことがあります。第一に、活用する人のない法があるのと、正しい法のあり方を認識している人々の魂があるのと、どちらがより希望を見出せるかを考えるならば、明らかに後者だ、ということです。教育基本法を失ったことは確かに残念なことではありますが、私達が手にしたものの本当の価値は、これから試されるのです。第二に、人の魂が育つ場を巡る争いは、むしろこれから本番を迎えるということです。政府与党も述べているように、教育基本法は理念法です。それを具体化する諸法や教育基本計画策定等がこれから議論されることになります。つまり、「セカンド・ハーフ*2」が始まるということになります。もちろん、政府与党はこれまで同様議論などせずに推し進めようとするでしょう。依然困難な闘いではありますが、そこで私達がどのくらいの強さを発揮することができるか。これが大事な分かれ目になるでしょう。


 現状の困難さに比して、過度に楽観的な態度に見られるかもしれないので、一言添えておきましょう。私は決して事態を楽観しているわけではありません。喩えて言うならば、私達は試合開始早々に退場者を出して大量失点をし、前半終了間際に辛うじて1ゴール取り返した。そういう状況にあります。それでも淡々としていられるのは、逆説的ではありますが、多くの人が悲嘆にくれている、そのことに勇気付けられているからです。また、状況はどうあれ、私はこのゲームをたのしんでいるところがあります。暗い時代にあっても、生きることそのものは生きることの享受であり、それを喜ぶことができないとしても、それは最初から祝福されているものなのです。

・・・あんなみじめな状態からでも、そしてあんな日常茶飯事からでも、歴史のそれぞれの瞬間には巨大な経験と記念碑的な運動がまき起こされるものなのです。すべて社会的な出来事は、何によらず、個人生活に起こることと同じように取り扱わねばなりません、どこまでも落ち着いた、おおらかな気持で、そして優しい微笑をもって。わたしは確く信じています、すべてのことがついには、戦後もしくは終戦ともなれば正しい方向に立ち戻るだろう、と。しかし、それまではわれわれは明らかに、人間的苦悩のもっとも悲惨なある時期を凌ぎ抜いて行かねばならないのです。(ローザ・ルクセンブルク『獄中からの手紙』(ISBN:4003414039)pp.78-79)

*1:しかし、それでも活動量をゼロにしないことは正しかったと思うし、そういう習性をすべての人が身につけるべきです。合理的判断が先行する人は、えてしてチャンスもピンチも「後の祭り」にしてしまうからです。

*2:「セカンド・ハーフ」とは、toledさんのこのネタからのパクリ。ついでにツネノさんのエントリに触れると、僕はツネノさんと違い、「教育」、「学校」という概念を否定するよりも、むしろ取り戻したいと考えています。間違いうる人間が別の人間に何かを教えるとはどういうことか。外から到来する何かの刺激によって初めて何かを考えはじめる私たちに不可欠なものは何だろうか。教師が生徒を教えるとき、生徒が教師を教えるようなものとして捉えるならば、学校は一体どのような場所でありえるだろうか。教師と生徒の間に(あるいは人と人の間に普遍的に)不可避的に生じる権力関係を壊しつつ切り離さずに変転させていく技とはどのようなものであるのか。そうした問いを通して「教育」という概念を取り返す思考こそが、今、まさに必要なんだと思います。